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2020年5月8日金曜日

ついに!やっと!

ついに! やっと!
 (邦訳に取り掛かっていること自体はもうだいぶ前に聞いていた。)


チャールズ・テイラーの『世俗の時代』(名古屋大学出版会)が出版されることになりました。

上・下巻各8千円、
とちょっと普通の人では手を出さない値段ですが、「信仰」と「近代・現代」との関係を重層構造な歴史として(複雑なパターンの織物みたいなイメージ)理解する上で欠かせない本です。
原著で読み通すのは勿論大変ですが、邦訳でも余程腰を入れて読まないとすぐ腰砕けになるであろうテイラー渾身の大著。

『世俗の時代【上巻】』

近現代の特徴の一つとされる「世俗化」。しかし、人々は様々なかたちで信仰や霊性とともに生きている。では、西洋において神信仰はいかにして力を失い、個人の選択肢の一つとなったのか。壮大な歴史的展望のもとに宗教・思想・哲学の曲折に満ちた展開を描き出す記念碑的大著、ついに邦訳。
チャールズ・テイラー 著  千葉 眞 監訳  木部尚志・山岡龍一・遠藤知子 訳
価格  8,000円
A5判・上製・548頁
ISBN978-4-8158-0988-1  Cコード3010
未刊
 『世俗の時代【下巻】』

ノヴァ・エフェクト後の哲学 ——。現代人が陥った精神的苦境の根本にあるものとは何か。「生きる意味」や「自分らしさ」の探求、スピリチュアルなものの流行は、世俗化といかに関係するのか。壮大な歴史的展望のもとに宗教・思想・哲学の曲折に満ちた展開を描き出す記念碑的大著。
チャールズ・テイラー 著  千葉 眞 監訳  石川涼子・梅川佳子・高田宏史・坪光生雄 訳
価格  8,000円
A5判・上製・502頁
ISBN978-4-8158-0989-8  Cコード3010
未刊

2017年11月6日月曜日

チャールズ・テイラー

社会学者のカテゴリーで紹介するのは、ピーター・バーガーに続いて二人目となる。

チャールズ・テーラー(1931-)はカナダの著名な哲学者でカトリックの信者である。

著書も何冊も邦訳されているので紹介は省略する。

テイラーについては既に何度か書いてみた。

そしてこの宗教と社会ブログでもここに少し

テイラーの考察する現代西洋社会(というか、どのように今日の社会となったか)は教会関係者にとっても重要な意義がありながら、特に福音派にあっては余り取り上げられることはなかったように思う。
そんな中で哲学の分野に詳しいカルヴィン・カレッジのJ.K.A.スミスが、現代の文脈でキリスト教のメッセージを語るには、ちょうど海外宣教師がその土地の宗教を学ぶように(それが文化人類学というディシプリンになったわけだが)、いまやポスト・キリスト教になっている西洋の思想的精神的文脈がどういうものか先ず学ばなければならない、と紹介したのがチャールズ・テイラー『セキュラー・エイジ』(2007年)であった。

しかしテイラーの『セキュラー・エイジ』を読みこなすのはさすがに大変なので、その入門的なものを書いたのが How (Not) to Be Secular: Reading Charles Taylor


この紹介サイトでは著者インタヴュー動画が見られる。

そうこうしているうちに大衆的で浅薄な“福音”ではなく、もっと思想的にもガッチリした福音提示を目指す“新カルヴィン主義”のグループであるゴスペル・コーリション(TGC)のコリン・ハンセンが編集者となってテイラーの『セキュラー・エイジ』を多角的に吟味する論文集『Our Secular Age』を出した。
 (大和郷の教会ブログの関連紹介記事を同名カテゴリーでご参照ください。)


ちなみに編著者であるコリン・ハンセンがTGCウェブサイトで結構長い紹介記事を書いている

また、論文寄稿者の一人、アラステア・ロバーツが自身のブログに書いた紹介記事がこれ
他にもう一人、デレク・リシュマウィの自身のブログにおける紹介記事がこれ

テイラーの『セキュラー・エイジ』は邦訳出版されると思うが、スミスの本も、ハンセン編の論文集も邦訳出版されることは恐らくまずないだろう。

いずれにしてもどんな内容の論文集になっているか興味深い。

2017年8月10日木曜日

ハービー・コックス「世俗化」はどうなった?

ハーヴァード大学神学部(Harvard Divinity School)の有名教授ハービー・コックスが同校の創立200年祭の同窓会で「Whatever Happened to Secularization?」について話した。


1965年に『世俗都市The Secular City)』を出して世界中で売れに売れ、一躍有名になった。

それから50年経って「一体『世俗化』はどうなったんだ?」と聴衆に問いかけた。

その時のビデオがこれだ。



全体でも43分のトークは間に聴衆とのQ&Aを挟んだ、かなり砕けた感じのもの。

話題も豊富で面白いと思う。

コックスはバプテストの牧師で話しぶりも結構ミドルクラス的で親しみやすい。

とてもアイヴィーリーグの教授と言う雰囲気ではない。


トークは『世俗都市The Secular City)』出版とその後のエピソードから始まる。

この本はボンヘッファーの獄中書簡にある「非宗教的キリスト教」の問いに呼応して書かれたものであることをまず紹介。


宗教は「公共圏」から撤退し、近代化とともに衰退する・・・という「世俗化説(secularization thesis)」はこの50年で一体どうなったか・・・。

反証として挙げられたのはガンディー、キング牧師、マルコムX、それにフランシス教皇など。
(特に教皇との個人的謁見では去り際に教皇から「祈ってほしい」とリクエストされたことを紹介している。)

「世俗化」は結局世界的な潮流にはならず、ヨーロッパ及び北半球限定のものであった、という見方を強めている。
(メキシコのある神学校訪問でのエピソードで、この世俗化潮流に対抗することを「非神話化」ならぬ「非北半球化」と造語されていたことを紹介している。)

聴衆の質問の中には、北半球では「既成宗教」は数字的にはっきり衰退しているが・・・という問いにも、最後にまとめとして展望していたのは「聖性の分散化(dispersal of the sacred)」だった。

トークの中で、(1967年頃)キング牧師にバーミンガムに来て講演してほしいと頼まれたが、「えっ私が。なぜ」と思って問い返したところ、キング牧師から言われたことが・・・現在の日本の福音派教会も含めて・・・「えっ」という感じのものであった。(自分で聞いてのお楽しみ)


というわけで、全体的に聞きやすいしおすすめです。

2017年7月16日日曜日

ピーター・バーガー(1929-2017)

お世話になった社会学者(故人も含めて)を紹介するということで、つい先ごろ亡くなったピーター・バーガーをトップバッターに選びました。

訃報を聞いての第一声(ツイート)は

バーガーの社会学については、アルフレッド・シュッツの多元リアリティ理論に依拠する・・・ことを少し書いた。(大和郷にある教会ブログ

いずれにしても「意味世界(リアリティ)」が社会的な構築(物)であると言う認識アプローチは様々な応用があるが、特に宗教(信仰)に対して伝統的なアプローチ(神学)とは大分異なる視点を提供する。(伝統的な神学だけをやってきた者には初めはなかなか馴染めないものであろう。)


さて、そのようなアプローチの理論的基礎としてバーガー&ルックマンの『現実の社会的構成』はよく使われ読まれたテキストブックだったと記憶している。


残念ながら筆者の手もとにはその原書が見つからない。(だいぶ昔に片付けてしまったようだ。)

その代わりと言っては何だが宗教社会学応用編となる三つの本と現代人の意識分析の本を書棚からピックアップして並べてみた。


時代的に言うと1970年代の本なので大分昔と言うことになる。

では追悼記事(オビチュアリー)を幾つか選んでリンクを貼っておきます。

上の方から順にお勧めですが、 三番目のアルバート・モラーのは7年前のインタヴュー記事で音声もあります。

それから最後に検索している時に見つけた論文を二つリンクしておきました。(後で時間が出来たら読んでみようかと思っています。)

The Precarious Vision of Peter Berger
by Martin E. Marty
July 3, 2017


(Washington Post)
Peter Berger, sociologist who argued for ongoing relevance of religion, dies at 88

Dr. Berger, born into a Jewish family in Vienna, planned to become a Lutheran minister before turning to academia, where he spent much of his career bridging reason and faith and defying easy labels.

Dr. Berger also made major contributions to the field known as sociology of knowledge, which studies the ways in which society shapes human thought. H is 1966 book “The Social Construction of Reality,” co-written with Thomas Luckmann, was ranked No. 5 on a list of the 20th century’s most influential works of sociology by the International Sociological Association and was translated into more than 20 languages.

Rethinking Secularization: A Conversation with Peter Berger
by Albert Mohler
October 11, 2010


Late scholar Peter Berger admitted 'big mistake' as sociologist of religion
by Christian Century staff
July 7, 2017

Alfred Schutz's Influence on American Sociologists and Sociology
by George Psathas




by Marek Chojnacki

[おまけ]
※ある社会学徒による「社会学者ピーター・バーガー自伝」というブログ記事が見つかりました。

2016年11月8日火曜日

宗教と文化(メディア)と政治

聖書が語る(?)ものとして過激に映像化されてきた(sensationalized)のが「携挙(ラプチャー/rapture)」であろう。

映像化されるような元となった「神学」はディスペンセーショナリズムと呼ばれる19世紀の産物である。(簡単な背景説明として、新約聖書学者、ベン・ワイザリントンの動画をご覧ください。)



もとは「米国の保守的キリスト教の一グループの聖書解釈/神学」は、しかしD・L・ムーディーなどのリバイバリズム(19世紀の信仰復興)運動によってどんどん拡がっていった。

この「宗教的うねり」は20世紀に入り政治の世界にも浸透していった。(例として、ビリー・グラハムと歴代大統領、最近の研究としてマシュー・A・サットンの、American Apocalypse: A History of Modern Evangelicalism、がある。)

今や「ビリー・グラハム」といっても「それって誰?」という人の方が多くなってきたかもしれないが、かつて「アメリカの偉大な伝道者」として登場してきた1950年代の頃(冷戦時代の始まりの頃)、
クルセードで盛んに「携挙」の時期を予測していたのですね・・・。

政治の世界だけでなく「映画産業」という文化、エンターテイメント・メディアにもどんどん浸透していった。

「携挙」イメージのヘビー・ユースは「黙示録的終末」のテーマとともにもはやハリウッド(ホラー)映画の常連の観がある。(アポカリプティック映画リストというウィキ項目で1950年代以降のものを十年毎に区切ってリストアップしている。)

「携挙」イメージは、もとはといえば極めて限られたものであったのが、様々なメディアを通して今や一般の人にもかなり「共有される文化」になったといっても過言ではないだろう。

たとえば簡単な動画クリップの「携挙」だとこんな感じになる。



「携挙」はまた格好の悪戯のアイデアともなる。




たまたまこんなことを検索していた時に見つけました。

テレビや映画などの「メディアとキリスト教保守主義・福音主義」や「メディアと保守政治」のつながりを研究している

ヘザー・ヘンダーショットさん。

現在はMIT(マサチューセッツ工科大)の「比較メディア研究」教授をしています。


2004年には『イエスのために世界を揺らす: メディアとキリスト教保守福音主義』という本を書いています。(Shaking The World For Jesus、シカゴ大学出版)



2004年当時はニューヨーク市立大で教えていましたが、世俗メディア(映画)にキリスト教の(サブカルチャー・テーマである)「携挙/アポカリプティック」が浸透するプロセスを分析しようとしています。


個人的には関心があってもこの辺のことを研究対象とするのはとても大変な感じがします。

でも「宗教とメディアの関係」研究はもっと必要でしょうね。

2015年12月5日土曜日

フランス「ライシテ」とイスラム

フランスの政教関係を取り仕切る原則をライシテという。

そんなに知らないので、参考書が必要だが、最近の研究書で言うと、上智大学の伊達聖神(だて きよのぶ)氏の『ライシテ、道徳、宗教学』が思い浮かぶ。

一度図書館から借りて読もうとしたが、分厚いのでパラパラめくって終わってしまった。

そんな中、2015年にイスラム関連の二つの大きなテロ事件がパリで起こってしまった。

世俗(主義)社会フランスで、ムスリムたちはどのようにその宗教的背景を市民社会で現すのか。

またそれに対して世俗主義の市民たちはどのように受け止めるのか。

様々な線引きの問題がこれまでもあり、またこれからも続くのだろう。



そしてそのような「公共での信仰表現の線引き問題」の一つとして法廷で争われ、EUの人権法廷まで持ち込まれた「ヒジャブ(モスレム女性のスカーフ)」ケースに結論が出された。

フランスの「公共でのヒジャブ着用禁止令」がEUの人権法廷で支持されたのだ。

簡単だが「al-Quds al-Arabi紙」の記事が翻訳されてシノドスで読める。

 欧州人権裁判所、フランスの公務員ヒジャーブ着用禁止令を支持

英語だがこの記事は経緯や背景がもっと詳しい。

 

2015年11月27日金曜日

市民宗教から公共宗教へ

まがりなりにも「市民宗教」という概念を用いて「アメリカと日本の市民宗教比較」を博士論文のテーマにした(プロスペクタスを書くまでで頓挫したが)者として、

藤本龍児
『アメリカの公共宗教:多元社会における精神性』 
(NTT出版、2009年)

は歓迎である。

※藤本氏の博士論文の方は、「市民宗教」が目指す、社会哲学的議論を中心にしたもので(それがべラーが狙っていたものであったが)筆者がやろうとしたものとは少し狙いが異なるが・・・。 

藤本氏の本は主にアメリカにおける政教関係の制度的発展に伴って「どのように宗教と政治社会が関わってきたか」 を概観しながら「公共宗教」のありうべき形態を模索したものだと思う。

今年フランスで2度大きなテロ事件があったが、グローバル社会の枠組み作りで課題となっている、公共(市民社会)形成における宗教の問題を突きつけられるにつけ、これがまさに喫緊の課題となっていることを思わされる。

藤本氏は、たとえば、「近代主義」と「原理主義」との対立を次のようにまとめている。

 目的のレベルとは、ありうべき理想像、目指すべき世界像のことを指す。その理想的世界像において、近代主義者と原理主義者の世界観は、鋭く対立している。近代主義者は「宗教を排除した理想的世界像」を描くが、それに対して原理主義者は「宗教を前提とした理想的世界像」を描く。言い換えれば、近代主義者が、あくまでも<世俗内の原理>に基づいて公的領域を組織しようとするのに対して、原理主義者は、どこまでも<世俗外の原理>に基づいて公的領域を形成しようとするのである。これが、近代主義と原理主義の根本的な対立である。
 しかし、あらためて考えてみたい。確かに、両者の目的とする理想的世界像は鋭く対立しているのであるが、それにもかかわらず、近代主義者も原理主義者も、目指すべき世界像をもって、そこに進んでいこうとする意識をもっている点では変わらない。そうした意味で両者は同じ根をもっているのである。とすれば、両者は、進歩史観や進歩思想を共有しているとは言えないか。なぜなら、進歩史観とは「歴史は理想的世界に向かって進んでいくものだ」と考える歴史観であるし、進歩思想とは「その理想的世界を実現すべく主体的に社会や政治にかかわっていこうとする意識や観念体系」のことだからである。であるならば、終末論に基づいて千年王国という理想的世界像へ向かう志向性をもっている点では、原理主義も進歩思想に通じていると考えられるのである。[175](120ページ)
[175] 厳密には、千年王国説には「前千年王国説」と「後千年王国説」があり、後者が進歩思想に親和的であると考えられる。原理主義は、神学のうえでは「前千年王国説」に立っているが、実際には「後千年王国説」に近い行動をとる。この区別については、第五章を参照。
文化多元主義多文化主義の区別については、文化多元主義を次のようにまとめている。
 まず「民族性」は、他者や他の文化からの干渉をまぬがれる事柄であるとし、それを「私的領域」に位置づけた。次に「国民性」は、他者や他の文化との交渉によって形成されたり維持されたりする事柄であるとし、それを「公的領域」に位置づけた。このように「私的領域」においてエスニック文化の多様性を承認しながら、同時に「公的領域」において共通性を確保したのである。こうした思想が、文化多元主義にほかならない。[278](190-1ページ)
そして多文化主義の課題を次のようにまとめている。
多文化主義の要求には、大別して「差別の是正」と「差異の承認」という二つの要求があった。「差異の承認」を強調して、単一の文化に固執するアフリカ中心主義のような多文化主義の形態は、排他的な自文化中心主義に陥ったり、連帯意識を阻害するという意味での「分裂」や「争いの場」を招いたりしかねない。また、分裂の危機を回避すべく、もう一度アングロ・サクソン文化を中心にアメリカを統合しようとする保守的な解決策は、多文化主義の「差別の是正」という要求に抵触する部分が大きい。そして、普遍性や中立性を掲げるリベラリズムの理論は、「差別の是正」の要求にたいしては有効でありながら、「差異の承認」の要求にたいしては実質的に対応することが難しいのである。したがって、自文化中心主義者にせよ、保守派にせよ、そしてリベラリズムにせよ、いずれも多元社会を成立させるための理論を提供できていない、ということなのである。(196-7ページ)

そして多文化主義下での公共宗教の役割を次のように定義している。
公共宗教は、多文化主義が求める「差異の承認」に応えるべく「同一化の暴力」のみならず「普遍化の暴力」にも対抗し、その中間にある「多元化」を模索するものにほかならない。(209ページ)
一度ざっと読んだだけなので果たしてちゃんと議論を理解しているかどうか心配だが、最初の引用で(オレンジ色で)強調した部分を、今日のISISのような原理主義を念頭に吟味すると「進歩思想という次元での近代主義との類似」は大いに疑問と思わざるを得ない。

もちろん「イスラム国」のような存在を「例外」として排除するならば別だが・・・。
しかしその場合でも、一定の「共存関係」を構築する道を模索しなければならないのではないか。

2015年10月10日土曜日

ポスト世俗と超越

本当に久し振りの更新です。

たまたま読んだブログ記事の紹介です。

イーナ・プレトリウス(発音は定かでない)さんは、現在はスイス在住のフェミニスト神学者。


ハイデルベルク大で博士号を取得し、現在はフリーランスで著作・講義などをしているようです。


Is There a Postsecular-transcendence?

宗教の多元化で、イベントに集まる人々は、様々な宗教的背景を持つ。

世俗化した情況で、無宗教的に会を持った方がいいか。

たとえば、キリスト教関連の集会では、祈りや賛美を織り交ぜてもいいのか。

迷うところです。

イーナさんは、たとえ世俗化したとは言えど、何かしら超越的なもの対する感覚は残っているだろうし、それを尊重してもよいのではないか。

とすると決まった祈りや賛美といった形式の儀式ではなく、沈黙のときをおいて、各自の宗教性に従ってその(超越との交流の)ときを過ごしたらいかがか。

という提案をなさっています。


※ドイツ人の方ですが、英語も読みやすいです。

2015年4月26日日曜日

『宗教崩壊』

世俗化という社会学用語は、

"secularization thesis"とか

"secularization theory"とも言われるように、

「科学的世界観によって宗教的世界観はやがて消滅する」とか、

「近代化によって宗教は社会の中心から私的領域に後退して行く」、

と言う風に受け取られてきた。


直前の記事でハーバーマスの『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)紹介したように、事情は大分変わってきた。


グローバルな社会を理解するのに、そして対応するには、どうやら「宗教リテラシー」がますます大切になっていくように見える。


日本の事情はどうか、と言う時にとても興味深い連載記事が日経ビジネスのサイトで始まった。

その名も宗教崩壊

人口減少や高齢化などの近未来社会を予兆する現象として宗教、特に仏教の現在をレポートする記事だ。

毎回ちょっとした歴史的背景などを織り交ぜた記事となっているので、余り仏教や宗教に詳しくなくても読み易くなっている。

何か本を買って学習する前に、ネットで手軽に読めるものを探している人には、オススメ、としておこう。


筆者は
2015年2月4日 寺は「時代遅れ」でもいい 芥川賞作家・玄侑宗久さんの仏教的視座

まで読んだが、玄侑宗久さんにインタヴューする記事は、(ツッコミどころ満載で)特に興味深かった。イチオシ。


2015年3月15日日曜日

ダイアリー 2015/3/15

めったに投稿がないので、余り前後の脈絡もない記事となります。
しかして「ダイアリー」のカテゴリーが選択されることに・・・。

今回はブックノートです。

ハーバーマス,ユルゲン/ラッツィンガー,ヨーゼフ(三島憲一訳)

『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)




昨今の「政治と宗教」の話題と言うと、イスラム過激派テロとか(最近はかなり下火になったが)米国でのキリスト教右派(ファンダメンタリズムを原理主義と訳して紛らわしくなった)や福音主義者などであろうか・・・。

政教分離によって政治を含めた公共圏では「宗教は存在しないはず・・・」と思われたところどっこいそうではない状況をどのように理解するかの「西洋版」入門としても、この(後に教皇ベネディクト16世となる)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ドイツを代表する知識人である哲学者ユルゲン・ハーバーマスの対話が収録されている本である。
まえがき・・・フロリアン・シュラー

『民主主義的法治国家における政治以前の基盤』・・・ユルゲン・ハーバーマス
 1. 世俗化された立憲国家の、実践理性を源泉とした基礎づけ
 2. 国家公民の連帯はどのようにして再生産されうるのか
 3. 社会的な紐帯が切れてしまうならば
 付論
 4. 二重で相互補完的な学習過程としての世俗化
 5. 信仰を持った市民と世俗化された市民がどのように交流したらよいのか

『世界を統べているもの』・・・ヨーゼフ・ラッツィンガー
 -自由な国家における政治以前の道徳的基盤-
 1.  権力と法
 2. 権力の新たな形態、その抑制に関する新たな問い
 3. 法の前提 法-自然-理性
 4. 異文化対話とその帰するところ
 5. 結論

著者について

《訳者解説》
『変貌するカトリック教会とディスクルス倫理』(53-125ページ)

↑目次を紹介したが、《訳者解説》のページ数を示したように、メインの2論文の倍以上の解説が付いている。

メイン論文は剣道の試合で言うと、「挨拶を終わって竹刀を合わせて間合いを確認した」 程のものであろうと思う。

今後このような議論を土台にして対論が交わされて行くためのレールを敷設したほどの意義ではないかと思う。

※議論の仕組みは、「世俗社会の枠組み」でどのように宗教が参加できるか、そのルールを説明してる観のあるハーバーマスが「兄貴分」とも思われるのだが、内容を見ると「(今や仲間に入れてもらう立場である)弟分」のラッツィンガーの方が「偉そうな素振り」を見せているかのようである。

興味深かったのは(恐らく宗教事情に疎い)日本の読者のために訳者である三島が書いた解説文だ。

近代のカトリックの世俗国家・社会との位置関係を、特に「第2バチカン公会議」以降の変化に焦点を合わせながら、ラッツィンガーの個人的思想史背景を巧みに解説している。

これだけでも十分読み応えがある。

三島の説明で使用されている文献で重要なのは、ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』であるが、一般教養人でも十分認識していない「世俗化の諸相」を照合しながら、『ポスト世俗化時代の哲学と宗教(カトリック)』を説明している。
※邦訳が待たれるチャールズ・テイラー『世俗化の時代』とともに必読の書であろう。(テイラーもカサノヴァの議論と対話しながら自説を展開している。779ページ脚注1)

以下解説文から3箇所引用

(1)ラッツィンガーの(青年期のリベラル神学から後退したかに見える)宗教性
 ラッツィンガーの立場ははっきりしていた。この世での解放や歴史の完成よりも神の前での回心こそが重要である。政治的行動よりも聖体を囲む静かな内省を、「正しい行動 Orthopraxis」への叫びよりも祈りを、「下からの教会」よりも「内なる教会」を、と論じた。簡単に言えば、ユートピアではなく、キリストの再臨を待つ静観的終末論である。特に神学とマルクシズムの「野合」には厳しい。(98-99ページ)

(2)ラッツィンガーの近代理解の視座
 そのパターンとは、近代は解体の時代であり、頽落の文化であり、「中心の喪失」・・・と「価値の崩壊」をその特徴としている、とするものである。かつての共同体にあった明確な生の意味が崩壊し、社会と文化にまとまりがなくなり、個人もグループもそれぞれ勝手な軌道を歩んでいる、というのだ。(107ページ)

(3)ハーバーマスとの違い
 しかし、脱出の思想である以上、起源への問いはあまり意味がない。共通善こそ人権を保障するというテーゼをラッツィンガーがしきりと語るのも、新アリストテレス主義でありながら、普遍主義であろうとする彼の議論戦略である。ハーバーマスとの違いは明らかである。人権は、法に保障されたすべての権利と同様に法的構築物・・・であり、技術的な諸権利・・・とは、道徳的根拠を持っている点で異なるだけである、とするハーバーマスは、その根拠に関しても、天賦人権説はもちろん、ラッツィンガーのように、伝統に由来する実体論の色濃いそれは採用しない。関係性としての日常会話からも読み取れるディスクルスの規則とその手続き性から、人権の相互承認を、つまり共同の主観性の承認関係から人権の法化を考えるのがハーバーマスの方式である。ハーバーマスの立場は、近代を解体とは見ずに、むしろ、多くの場合暴力であった伝統を越えて、これまでになかった別の可能性を近代に見る。(112-113ページ)
と言った具合である。

特に(3)で引用した部分に対する教会側の見解は如何に、と言う重大な関心があるだろう。


2014年5月28日水曜日

ダイアリー 2014/5/28

もうちょっとまとまった形で情報提供できたらよいのですが、現状では余力がなく思いつくままに、と言うことで「ダイアリー」形式を取っています。

《世俗化》

「ダイアリー 2014/5/24」でユルゲン・ハーバーマスを紹介しました。

一旦は「世俗化が完了した近代国家・社会の枠組み」で宗教を計算外にしていたハーバーマスが、近年(1985年くらいを境に)意欲的に「宗教を現代社会理論と政治の舞台での役者としている」かを示すのが、ポスト世俗化時代の哲学と宗教ですね。
前教皇ベネディクト一六世との討論です。

欧米圏における、18世紀啓蒙主義以降の「世俗化」とは、政治を含めた社会における「教会」の権威の縮小(市民社会及び個人の教会的権威からの自立)であり、政教分離を通して宗教が相対的に影響力を失い、その感化の範囲も「個人の内心」に限定されてくる過程を指します。

この歴史過程をある程度決定論的に見る人たちが考える「世俗化」とは、即ち科学思考が浸透すればやがて宗教は必要なくなり消滅する、と言う見方でした。

このような欧米知識人の間で支配的な「世俗化」論に対し、「それは実際とは異なるだろう」と挑戦したのが、2007年テンプルトン賞、2008年に京都賞(稲盛財団)、を受賞したカナダ人のチャールズ・テイラーです。


彼のA Secular Age(『世俗の時代』未邦訳)が2007年に出版されて以来、多方面で彼のテーゼと分析が議論されています。

(このブログとは直接関連させていませんが)既に「ツイッター(@yamakoete)」でご紹介した、

です。

《無神論》

(合理主義的、科学主義的知識人にとっては常識とも言える)「一方的な世俗化」論は無神論者の観測でもあったのですが、予想に反して宗教と言う迷妄がなかなか表舞台から退場しないのに業を煮やしている無神論者の一人が、英国の代表的無神論者のリチャード・ドーキンス氏です。


しかしこんなに平然と「宗教は幻想(ハルシネーション)だ。自分はそんなものには用はない。」と言い切っているドーキンス氏ですが、 最近の新聞記事では
“I would describe myself as a secular Christian in the same sense as secular Jews have a feeling for nostalgia and ceremonies,” said Dawkins. (リンク)
とのこと。
「世俗のキリスト者」とは、「一方的な世俗化」論者にとっては論理矛盾のはずですが・・・。

そこが宗教・信仰の面白いところです。
そんな簡単に割り切れません。

※ A Secular Age(『世俗の時代』)は多分どこかが邦訳を進めているのではないかと思います。