しかして「ダイアリー」のカテゴリーが選択されることに・・・。
今回はブックノートです。
ハーバーマス,ユルゲン/ラッツィンガー,ヨーゼフ(三島憲一訳)
『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)
昨今の「政治と宗教」の話題と言うと、イスラム過激派テロとか(最近はかなり下火になったが)米国でのキリスト教右派(ファンダメンタリズムを原理主義と訳して紛らわしくなった)や福音主義者などであろうか・・・。
政教分離によって政治を含めた公共圏では「宗教は存在しないはず・・・」と思われたところどっこいそうではない状況をどのように理解するかの「西洋版」入門としても、この(後に教皇ベネディクト16世となる)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ドイツを代表する知識人である哲学者ユルゲン・ハーバーマスの対話が収録されている本である。
まえがき・・・フロリアン・シュラー
『民主主義的法治国家における政治以前の基盤』・・・ユルゲン・ハーバーマス
1. 世俗化された立憲国家の、実践理性を源泉とした基礎づけ
2. 国家公民の連帯はどのようにして再生産されうるのか
3. 社会的な紐帯が切れてしまうならば
付論
4. 二重で相互補完的な学習過程としての世俗化
5. 信仰を持った市民と世俗化された市民がどのように交流したらよいのか
『世界を統べているもの』・・・ヨーゼフ・ラッツィンガー
-自由な国家における政治以前の道徳的基盤-
1. 権力と法
2. 権力の新たな形態、その抑制に関する新たな問い
3. 法の前提 法-自然-理性
4. 異文化対話とその帰するところ
5. 結論
著者について
《訳者解説》
『変貌するカトリック教会とディスクルス倫理』(53-125ページ)
↑目次を紹介したが、《訳者解説》のページ数を示したように、メインの2論文の倍以上の解説が付いている。
メイン論文は剣道の試合で言うと、「挨拶を終わって竹刀を合わせて間合いを確認した」 程のものであろうと思う。
今後このような議論を土台にして対論が交わされて行くためのレールを敷設したほどの意義ではないかと思う。
※議論の仕組みは、「世俗社会の枠組み」でどのように宗教が参加できるか、そのルールを説明してる観のあるハーバーマスが「兄貴分」とも思われるのだが、内容を見ると「(今や仲間に入れてもらう立場である)弟分」のラッツィンガーの方が「偉そうな素振り」を見せているかのようである。
興味深かったのは(恐らく宗教事情に疎い)日本の読者のために訳者である三島が書いた解説文だ。
近代のカトリックの世俗国家・社会との位置関係を、特に「第2バチカン公会議」以降の変化に焦点を合わせながら、ラッツィンガーの個人的思想史背景を巧みに解説している。
これだけでも十分読み応えがある。
三島の説明で使用されている文献で重要なのは、ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』であるが、一般教養人でも十分認識していない「世俗化の諸相」を照合しながら、『ポスト世俗化時代の哲学と宗教(カトリック)』を説明している。
※邦訳が待たれるチャールズ・テイラー『世俗化の時代』とともに必読の書であろう。(テイラーもカサノヴァの議論と対話しながら自説を展開している。779ページ脚注1)
以下解説文から3箇所引用
(1)ラッツィンガーの(青年期のリベラル神学から後退したかに見える)宗教性と言った具合である。
ラッツィンガーの立場ははっきりしていた。この世での解放や歴史の完成よりも神の前での回心こそが重要である。政治的行動よりも聖体を囲む静かな内省を、「正しい行動 Orthopraxis」への叫びよりも祈りを、「下からの教会」よりも「内なる教会」を、と論じた。簡単に言えば、ユートピアではなく、キリストの再臨を待つ静観的終末論である。特に神学とマルクシズムの「野合」には厳しい。(98-99ページ)
(2)ラッツィンガーの近代理解の視座
そのパターンとは、近代は解体の時代であり、頽落の文化であり、「中心の喪失」・・・と「価値の崩壊」をその特徴としている、とするものである。かつての共同体にあった明確な生の意味が崩壊し、社会と文化にまとまりがなくなり、個人もグループもそれぞれ勝手な軌道を歩んでいる、というのだ。(107ページ)
(3)ハーバーマスとの違い
しかし、脱出の思想である以上、起源への問いはあまり意味がない。共通善こそ人権を保障するというテーゼをラッツィンガーがしきりと語るのも、新アリストテレス主義でありながら、普遍主義であろうとする彼の議論戦略である。ハーバーマスとの違いは明らかである。人権は、法に保障されたすべての権利と同様に法的構築物・・・であり、技術的な諸権利・・・とは、道徳的根拠を持っている点で異なるだけである、とするハーバーマスは、その根拠に関しても、天賦人権説はもちろん、ラッツィンガーのように、伝統に由来する実体論の色濃いそれは採用しない。関係性としての日常会話からも読み取れるディスクルスの規則とその手続き性から、人権の相互承認を、つまり共同の主観性の承認関係から人権の法化を考えるのがハーバーマスの方式である。ハーバーマスの立場は、近代を解体とは見ずに、むしろ、多くの場合暴力であった伝統を越えて、これまでになかった別の可能性を近代に見る。(112-113ページ)
特に(3)で引用した部分に対する教会側の見解は如何に、と言う重大な関心があるだろう。
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