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2017年10月17日火曜日

ダイアリー 2017/10/17

ツイッターを見ていたら、イラン留学中の方のツイートが目に留まり・・・。

(遡って)無宗教の日本人が、宗教的な環境で感じる「宗教」についての思いを語るツイートを拾ってみました。

















2016年10月28日金曜日

イスラーム主義活道家

日本においてイスラームという宗教はまだまだ未知な部分が多い。

たとえばキリスト教について殆どの人は(キリスト教の)聖書を読めばその大要が分かると思う人は多いかもしれない。

ところが聖書に書いてある「イエスの愛についての教え」と、実際に出会うクリスチャンが全くそんなでないと、どっちを規準にキリスト教を理解するかと云うと・・・やはり「聖書」の規準でしょうね。

その結果「誰々さんはクリスチャンとか言ってるけど、まったくらしくない・・・」とか言うようなことになりかねない。

でも実際にクリスチャンだと自称する人たちの言動や生活から「あー、クリスチャンとはこう言う人たちなんだ」とキリスト教を理解することも十分ありだと思います。


「キリスト教」とか「イスラーム教」とかという《アイデア・理念上の産物》と、それを奉ずる人々の多様なあり方の間のある意味「不一致(discrepancy)」現象は、世界が多文化共生社会になってきてより実際的に悩ましい問題になってきたように思います。


先日(2016年10月21日)、朝日新聞が朝刊で「イスラムと欧米」というインタヴュー記事を掲載しました。

  (※記事についてはもちろん朝日デジタルで読めますが、自分のブログに全文掲載している方もいます。)

インタヴューの相手はタリク・ラマダンさんという「イスラム思想家」です。

聞き手は朝日のGLOBE編集長の国末憲人さん。

ラマダン氏はムスリムが欧米市民社会の一員としてもっと対等の意識で「相互をリスペクトする」必要があり、そのためには「寛容を受ける対象」としてではなく、もっと「ムスリムとしてのアイデンティティー」を主張することが必要だ、との持論のようです。

その一つの例として「ブルキニ」問題が取り上げられたのですが、以下のような応答になっています。
 「これは、アイデンティティーの摩擦ではなく、ムスリムが存在感を示してきたことの証左にすぎません。彼らの存在が可視化され、『我ここにあり』と主張できるようになった。失敗の印でなく、逆にムスリムが欧州社会に溶け込み、成功した証しです」
 ――欧州社会、特にフランスでは、多くのムスリムが世俗的な生活になじんでいます。イスラム教のアイデンティティーを保て、とのあなたの呼びかけは、宗教回帰を目指す試みになりませんか。
 「違います。ムスリムがムスリムであり続けよ、といっているだけです。彼らがイスラム教から離れることを望む人が『イスラム回帰だ』と騒いでいるだけではないでしょうか」

このインタヴュー対して、国末編集長はこちらでも紹介した東大のイスラーム学者・池内恵教授にに「セカンド・オピニオン」を求めています。

そこで彼はブルキニ問題に関してこんなことを言っています。
 ブルキニ問題も、単に服装の自由とのみ見るべきではありません。背景にあるのは「男性は身内の女性を所有し、保護する義務と同時に監督・支配する権利を持つ」というイスラム社会に根強い発想です。イスラム教のもとで、女性と男性は、平等ではありません。ブルキニを着る「自由」は、西欧社会にイスラム的な男女・家族関係を持ち込みます。
 その点をムスリムに指摘すると「イスラムへの差別だ」と反論します。でも、ムスリムとイスラム教をすり替えてはなりません。近代的な人権規範の下では、人としてのムスリム差別は許されませんが、イスラム教の宗教規範を批判する権利は認められるべきです。

この指摘については「なるほど」と思いました。

ライシテとブルキニでも「リベラルな視点」から見る「ブルキニ問題」を取り上げたのですが、「(他)宗教への寛容」として見た場合、「ブルキニを着る自由」は守られるべきであり、ブルキニ着用禁止は「自由への侵害」だ、となります。

欧米の価値観から見たときに「ブルキニ着用の自由」の問題に見えるが、イスラムの価値観から見たときに「ブルキニ着用は女性差別の保護」になる、と云うねじれ構造になるのでしょうね。

なかなか単純ではない。複眼的に捉える必要があることを池内教授の「セカンド・オピニオン」は示していると思います。


欧米社会で「マイノリティー」であるムスリムの自由や権利を擁護すること(欧米のリベラル派が一生懸命になる傾向)と、そのマイノリティー社会の中での女性や少数者の権利を擁護すること(人権活動家たちが一生懸命になること)とを区別して考える必要があることを示したのが以下のオックスフォード大でのディベートです。

左側がラマダン氏で、右側がイラン出身の「前ムスリム」でイスラム社会での少数者の言論の自由抑圧を訴えるマルヤム・ナマージー氏です。


2016年8月25日木曜日

ライシテとブルキニ

ご存知のように多発しているテロの余波か、もともとライシテ政策を取っているところに、夏フランスの幾つかの海岸で「ブルキニ」と呼ばれるイスラームの女性用の全身を覆ったスイムウェアーの女性たちに対してこの着用を禁止する措置が取られているようです。

あまりに過敏な反応のように思えるので、こんなデモもとられています。
そう、カトリックのシスターたちが「宗教的服装」をして海岸で「指導するならしてみなさいよ」と抗議しているのですね。

2016年2月5日金曜日

IAリサーチ・ノート 2016/02/05

イスラム過激派とアポカリプティック思想
 
というテーマでの素人の リサーチ・ノートを公開する・・・というわけですが、なかなかねー更新してなかった。

でも何もしていなかったわけではなく、逆にあっちゃこっちゃ拡散気味で収拾がつかない(とまではいっていないが)ので止めておいたところでした。

日本語のものでは、
池内 恵 『イスラーム国の衝撃
中田 考 『イスラーム 生と死と聖戦
を読了した。

イスラーム過激派の動向については池内の本の方が詳しいが、まずは中田の本で押さえている「イスラームという宗教」の基本的ポイントのいくつかを以下に引用で紹介する。

(1)イスラーム聖職者
 彼らの多くはイスラーム法学者で、法解釈について権威ある見解を出すことはできますが、神の法を新たにもたらしたり、いまある法を変えることはできません。それができるのは預言者だけで、イスラームではムハンマドが最後の預言者であるとされていますから、基本的には法改正はありえません。(143-4)
(2)カリフ制再興と「終末」のシナリオ
ただ結局、私の考えというかイスラームの世界観でもあるのですが、最後の審判がくるまで世界は完全なイスラーム化はしません。だからカリフ制が復興された地域に住む人間もいれば、その外ではグローバル資本主義を進めようとする勢力もいて、最後まで残ると思います。
 その両者の対立をできるだけ物理的な戦争にしないようなかたちで共存させるのが、私の望む世界なのです。戦争をしてしまうと、どちらも当然滅びますから。(184)
(3)イスラームが唯一正義を実現する宗教
 私にとっては非常に単純な話なのですが、人間が人間を支配するのはいけない。国家も民族も、人間が人間を支配するという不正を隠蔽するヴェールにすぎない。それをはっきり言える一神教はイスラームしかない。イスラームしかないと言っているのが私しかいないのが困ったことなのですが、本来、イスラームの学者はみんなそう言うべきなのです。(196)
(4)カリフ制再興の目的
  国家権力と金の力、これが現代の偶像神であり、こうした偶像崇拝を打破して、本来のダール・アル=イスラームを回復する。そのためのカリフ制再興であり、それはひいては国家と企業の連合体が推進するグローバル化に対抗する、もうひとつのグローバルな連帯の形成にも役立つ、というのが私の主張です。(202-3)

とまあ、先ずはこんなところでしょうか。





2015年12月5日土曜日

フランス「ライシテ」とイスラム

フランスの政教関係を取り仕切る原則をライシテという。

そんなに知らないので、参考書が必要だが、最近の研究書で言うと、上智大学の伊達聖神(だて きよのぶ)氏の『ライシテ、道徳、宗教学』が思い浮かぶ。

一度図書館から借りて読もうとしたが、分厚いのでパラパラめくって終わってしまった。

そんな中、2015年にイスラム関連の二つの大きなテロ事件がパリで起こってしまった。

世俗(主義)社会フランスで、ムスリムたちはどのようにその宗教的背景を市民社会で現すのか。

またそれに対して世俗主義の市民たちはどのように受け止めるのか。

様々な線引きの問題がこれまでもあり、またこれからも続くのだろう。



そしてそのような「公共での信仰表現の線引き問題」の一つとして法廷で争われ、EUの人権法廷まで持ち込まれた「ヒジャブ(モスレム女性のスカーフ)」ケースに結論が出された。

フランスの「公共でのヒジャブ着用禁止令」がEUの人権法廷で支持されたのだ。

簡単だが「al-Quds al-Arabi紙」の記事が翻訳されてシノドスで読める。

 欧州人権裁判所、フランスの公務員ヒジャーブ着用禁止令を支持

英語だがこの記事は経緯や背景がもっと詳しい。

 

2015年12月1日火曜日

IAリサーチ・ノート 2015/12/01

2015年も終わろうとしている。

このブログ「宗教と社会」のテーマで言うと、やはり今年最も印象的な出来事は、パリで起こった二つの大きなテロ事件だ。

 シャルリー・エブド襲撃事件

 パリ同時多発テロ事件

実は西洋世界でのテロ事件はメディアにより多く・強く報道されるが、ツイッター等で報告されるテロやテロらしき殺傷事件は数多く、ほぼ日常的にさえ感じられる。

その中でやはり「イスラム」が絡んだ事件が多いとの印象は避けられないだろう。

現在米国で展開中の大統領指名候補を争うキャンペーンが繰り広げられているが、通常では大失言にも値する「人種」に絡んだ移民排斥発言が(共和党の)複数候補によってなされている模様だ。

その中でも格別先頭を行くトランプ候補の発言は過激だ。

いわゆる「イスラム恐怖症(イスラモフォビア)」の作用は、パリ同時多発テロ事件の影響によって再燃しており今後の大統領選も左右しかねない模様だ。


遅ればせながらというべきだろうか、ここに来てようやくイスラム過激派が引き起こすテロと彼らの宗教イデオロギーとの関連に注意を向ける必要があるのではないか、との認識を持ちつつある。

彼らが世界のあちこちで事件を起こす度、「イスラム過激派はイスラムではない。イスラムは平和的宗教だ。」とのアッピールがイスラム側からも、非イスラム側からも繰り返される。

当然である。グローバル社会にあって宗教を基にした対立が全面的に展開されるようになることを避けなければならないことは自明だからだ。

しかしだからといって「イスラム過激派は『イスラムという宗教』の名を語る殺戮集団」と片付けていいのだろうか。

やはり彼らの行動の背後にイデオロギーの問題があり、そしてそのイデオロギーが単なる暴力行為の正当化ではなく、彼らの暴力行動を引き起こす大きな要因となっている可能性があることを真面目に取り上げる必要があるのではないか。

彼らの宗教イデオロギーの中でも、特に「アポカリプティック」な過激思想に焦点が一つ絞られてきているように思う。

コーランの厳密な読み方や、イスラムという宗教の厳密な理解の問題はあるだろうが、とりあえず
 イスラム過激派とアポカリプティック思想
というテーマで素人の(アームチェア)リサーチを始めてみようと思い至った。

そして折々そのリサーチ・ノートを公開していこうと思うのであった。

名付けて「イスラム過激派思想リサーチ・ノート」、略してIA(Islam Apocalyptic) リサーチ・ノートの開始だ。


2015年2月6日金曜日

ダイアリー 2015/2/6

久し振りの投稿です。
今年初となります。

前回、お詫びとお知らせを書きました。

この「小さなコロキアム」が目指しているが、まだ実現していない「共同学習会」の二テーマの2番目、(2)宗教の「今」、だったらこんなテキストで、こんな内容だったのだが・・・と言うことを書きました。

あれから暫く経って、もうすぐ春を迎えようとなっている今、考えているのは、「共同学習会」の二テーマ(1)簡単な「世界の宗教」入門の方です。

今年4月には何とかしたいなー、と細々ながらプランを練り始めました。

既に昨年初めにはテキストとなるべき本を物色して、「これ」というものを購入しました。

一応紹介しておくと、
要点解説90分で分かる! ビジネスマンのための「世界の宗教」超入門

です。
(宗教情報センター研究員 藤山みどり氏による書評をご参考に)

「90分」や「ビジネスマンのための」、とキャッチコピーが付けられているように、とにかく手っ取り早く世界の主な宗教を概観しておこうというものです。

「共同学習会」としてはなるべく敷居を低くしたかったので、このような「軽い」テキストを考えてみたわけですが。

しかしそれから1年。
イスラムに関わることがクローズアップしてきました。
「世界の宗教」の中でも、イスラム教を学習するべき時が来たのではないか・・・と感じています。

と、現段階では「ダイアリー」で書くにとどめておきます。

2014年5月19日月曜日

世界の宗教 知っ得 1

今年秋から始めようとしている共同学習会のテーマの一つは
簡単な「世界の宗教」入門
であることをお知らせしました。

世界は「グローバル化」している、とよく言われますが、それほど一本調子でグローバル化しているかと言うとそれほどでも・・・とも言いたい感じです。

と言うのも「ナザレのイエス」を歴史的に学ぼうと思えば、既にガリラヤの村である「ナザレ」でさえすぐ近くには、ローマ皇帝ティベリウスにちなんだ「ティベリア」 と言う町があり、当時のユダヤは政治も文化もギリシャやローマの影響下にありました。

既に「他文化状況」はあったわけです。

でも資本主義がどんどん進み、私たちを取り巻く経済世界が増々グローバルな状況になったのは間違いないと思います。

そんな状況下では「世界の宗教」を一般知識として持っておくことが必要になります。

その一例である実話をちょっとご紹介してみましょう。

Aさんは重電気関連の外資系企業に勤めていました。
度々海外出張で外国に出かけたのですが、中にはイスラム圏の国がありました。

ビザを申請する段になって、自分の宗教を申告する欄がありましたが、「無宗教」と言う選択肢はありませんでした。

イスラム圏の国では「無宗教」と言うカテゴリーはないのですね。
Aさんは事実とは違うと思いながら、「仏教」だか「神道」を選んだようです。

また別なイスラム圏の国に言った時は、帰りの飛行機に乗る時あるお土産を持たされました。
機中で時間があるでしょうから読みなさい、と手渡されたのは「コーラン」だったそうです。

またイスラムの戒律が厳しい国に行った時、こんなことがあったそうです。

イスラムが徹底している国では、外国人や観光客などは居住地区がくっきり分けられているのだそうですが、たまたま入ったスーパーマーケットで、つい一服していたら、かなり離れた場所で誰か大声でがなりたてているのに気がつきました。

Aさんは最初何だろうと事態が飲み込めませんでした。

そうしたら近くにいた外国人の人が「ラマダン最中は外国人でも人前でタバコは禁物だ」と教えてくれたそうです。

Aさんはラマダンの戒律がそこまで厳しいものとは知らず大変驚いたそうです。


イスラム圏の国には戒律の厳しい国とそれほどでもない国など必ずしも一律ではないようです。

しかし日本においてもお相撲さんの中には大砂嵐のようにエジプト出身の関取が出てきました。
彼は場所中もラマダンに則って日中はを断じたようですが、 これも解釈によっては適宜対応の仕方があるようです。

てなわけで私たちの周りにも「世界の宗教 知っ得」状況は段々日常的になりつつあるのかもしれませんよ。