ハーヴァード大学神学部(Harvard Divinity School)の有名教授ハービー・コックスが同校の創立200年祭の同窓会で「Whatever Happened to Secularization?」について話した。
1965年に『世俗都市(The Secular City)』を出して世界中で売れに売れ、一躍有名になった。
それから50年経って「一体『世俗化』はどうなったんだ?」と聴衆に問いかけた。
その時のビデオがこれだ。
全体でも43分のトークは間に聴衆とのQ&Aを挟んだ、かなり砕けた感じのもの。
話題も豊富で面白いと思う。
コックスはバプテストの牧師で話しぶりも結構ミドルクラス的で親しみやすい。
とてもアイヴィーリーグの教授と言う雰囲気ではない。
トークは『世俗都市(The Secular City)』出版とその後のエピソードから始まる。
この本はボンヘッファーの獄中書簡にある「非宗教的キリスト教」の問いに呼応して書かれたものであることをまず紹介。
宗教は「公共圏」から撤退し、近代化とともに衰退する・・・という「世俗化説(secularization thesis)」はこの50年で一体どうなったか・・・。
反証として挙げられたのはガンディー、キング牧師、マルコムX、それにフランシス教皇など。
(特に教皇との個人的謁見では去り際に教皇から「祈ってほしい」とリクエストされたことを紹介している。)
「世俗化」は結局世界的な潮流にはならず、ヨーロッパ及び北半球限定のものであった、という見方を強めている。
(メキシコのある神学校訪問でのエピソードで、この世俗化潮流に対抗することを「非神話化」ならぬ「非北半球化」と造語されていたことを紹介している。)
聴衆の質問の中には、北半球では「既成宗教」は数字的にはっきり衰退しているが・・・という問いにも、最後にまとめとして展望していたのは「聖性の分散化(dispersal of the sacred)」だった。
トークの中で、(1967年頃)キング牧師にバーミンガムに来て講演してほしいと頼まれたが、「えっ私が。なぜ」と思って問い返したところ、キング牧師から言われたことが・・・現在の日本の福音派教会も含めて・・・「えっ」という感じのものであった。(自分で聞いてのお楽しみ)
というわけで、全体的に聞きやすいしおすすめです。
巣鴨(東京都豊島区)をベースにする共同学習会。 「小振りな」コロキアムなので「小ロキアム」とした。関心分野は「宗教」と「社会」。学問的には、宗教社会学と、社会倫理を主に用いる。 コミュニケーション言語として英語も用いる。 A tiny colloquium based in Sugamo,Toshima-ku, Tokyo, Japan. We use the disciplines of Sociology of Religion and Social Ethics to discuss the contemporary issues of both local and global society.
2017年8月10日木曜日
2017年8月9日水曜日
自由主義 vs 根本主義
20世紀前半、1925年の『スコープス・トライアル』の前と後で、アメリカ・プロテスタント・キリスト教の様相が大きく変わった、とこの研究分野で第一人者ジョージ・マースデンは言う。
ちょっと判読しにくいですが、「いや彼らは充分に(ファンダメンタリストたちの攻勢に、『ファンダメンタルズ』に)気づいていた」のが分かる「インサイダー情報」だ、とこの手紙を発見して報告しています。
これに触発されて、おもにアメリカ宗教史家たちの会話が続いています。
George M. Marsden, FUNDAMENTALISM and AMERICAN CULTURE
キリスト教保守派が一致団結して『ファンダメンタルズ』を出版したのは1910-1915。この攻勢に対して自由主義陣営は極めて「音なし」だった、とされてきたようです。
今朝このようなツイートがありました。
For historians who think that liberal Protestants either did not notice or were not bothered by _The Fundamentals_ I present... pic.twitter.com/I30iF0rzau— Tim Gloege (@timgloege) 2017年8月8日
ちょっと判読しにくいですが、「いや彼らは充分に(ファンダメンタリストたちの攻勢に、『ファンダメンタルズ』に)気づいていた」のが分かる「インサイダー情報」だ、とこの手紙を発見して報告しています。
これに触発されて、おもにアメリカ宗教史家たちの会話が続いています。
ラベル:
アメリカ,
キリスト教,
ファンダメンタリズム,
プロテスタント神学
2016年12月27日火曜日
The Line Between Religion and Magic
Elizabeth Bruenig, a Washington Post religion columnist, went through life's hardships lately and wrote about it.
Her reflection is very personal yet thoughtful.
She narrates her story in a simple manner but frames it to deal with the question of "the line between religion and magic".
The line between religion and magic, I learned in school, isn’t clear. But many scholars of religion agree that one important division is that while magic is private and crisis-oriented, religion is public and its rituals have no specific, short-term, earthly goals.
As a Catholic, she explores ways to cope with sufferings through prayer and confessions.
But throughout this all she ponders over the medal with broken clasp. Fixing it was in the back of her mind but she never did.
I guess, the medal represents the magic part in this reflection.
For a while during the long, hot summer I entertained the superstitious idea that things would not look up for my family until I had the clasp of my medal repaired. I did not think I was being punished for breaking it, but I thought I had damaged some trust by doing that, and that I couldn’t fix it until I did some penance by way of cost and trouble.
She, at least, entertained some magical ways of coping, it seems.
Along the way, she's dealing with the question of "losing faith," too.
What does it mean to lose faith for a well-educated Catholic?
I guess she's dealing with this question against the backdrop of, possibly, postmodern situation.
In my dream, I wandered down the aisle of some kind of noisy, crowded theater. At the front, where a stage should have been, were confessionals. I went inside one to repent and there was no priest there, only a screen with the face of a priest. I said to him: “Father, I’ve lost my faith.”
All in all, Elizabeth gave us an interesting story to think about.
Thankfully, it's without much heavy theological discussion-though she's capable of doing that way if she so chooses.
Story-telling rather than theologizing. Isn't it more postmodern thing to do?
2015年11月24日火曜日
アメリカ市民宗教と福音派:新刊紹介
殆どの西側先進諸国では「国家」と「教会」、「政治」と「宗教」が区別され分離されている。
とはいえ実際の政治社会では、その区別が判然としなくなるほどそれら二つの領域や概念が重なり合うことになる。
特に政治の領域において何かしらの「宗教」の役割(少し悪く言えば効能というか利用価値)が問われるし、実際アメリカのような国では伝統的にキリスト教を背景とした象徴的なフレーズや所作が公然と示威されることがある。
特に、社会学者ロバート・ベラー(1927-2013)の『アメリカ市民宗教』論文(1967年)で、一躍この「政治の次元における『公共宗教』」がクローズアップされることになった。
爾来『市民宗教(civil religion)』という視点は、アメリカの政治と宗教の重なる歴史的事象に関する様々な議論や分析に登場してきた。
つい最近出版された
は、いわゆる「福音派」と呼ばれる神学校の歴史学教授が著したこのテーマに関する分析である。
その福音派にあって、どちらかというとより保守的なグループの論壇を形成する「ゴスペル・コーリション」で書評が出ているので紹介する。
The False Gospel of American Exceptionalism
書評者はアメリカキリスト教史が専門と見られるネイサン・フィンだ。
福音派は概ねアメリカ国家とキリスト教の歴史的重なりを摂理的に受け入れ、国家支持とキリスト教信仰が「融合している」感覚で政治にコミットしやすい傾向を持っている。
しかし、いやそれだからこそ「アメリカ国家を特別視する」本の題名に用いられている「アメリカン・イクセプショナリズム」の問題に警戒が必要だと自覚を促しているようだ。
書評者によると、アメリカの福音派は今後、進歩派の社会正義に対する関心や、彼らの政治理念のベースとなる「現実主義」の要素も取り入れるべきではないか、と著者のウィルシーが提案しているように思われるという。
そうだとすると、この本の提案は福音派読者に「リベラル政治」から「無神論」へ滑り落ちて行く危険はないだろうか、という反感を抱かせないとも限らない、と分析している。
とはいえ実際の政治社会では、その区別が判然としなくなるほどそれら二つの領域や概念が重なり合うことになる。
特に政治の領域において何かしらの「宗教」の役割(少し悪く言えば効能というか利用価値)が問われるし、実際アメリカのような国では伝統的にキリスト教を背景とした象徴的なフレーズや所作が公然と示威されることがある。
特に、社会学者ロバート・ベラー(1927-2013)の『アメリカ市民宗教』論文(1967年)で、一躍この「政治の次元における『公共宗教』」がクローズアップされることになった。
爾来『市民宗教(civil religion)』という視点は、アメリカの政治と宗教の重なる歴史的事象に関する様々な議論や分析に登場してきた。
つい最近出版された
John D. Wilsey. American Exceptionalism and Civil Religion: Reassessing the History of an Idea. Downers Grove, IL: IVP Academic, 2015. 263 pp. $22.00.
は、いわゆる「福音派」と呼ばれる神学校の歴史学教授が著したこのテーマに関する分析である。
その福音派にあって、どちらかというとより保守的なグループの論壇を形成する「ゴスペル・コーリション」で書評が出ているので紹介する。
The False Gospel of American Exceptionalism
書評者はアメリカキリスト教史が専門と見られるネイサン・フィンだ。
福音派は概ねアメリカ国家とキリスト教の歴史的重なりを摂理的に受け入れ、国家支持とキリスト教信仰が「融合している」感覚で政治にコミットしやすい傾向を持っている。
しかし、いやそれだからこそ「アメリカ国家を特別視する」本の題名に用いられている「アメリカン・イクセプショナリズム」の問題に警戒が必要だと自覚を促しているようだ。
書評者によると、アメリカの福音派は今後、進歩派の社会正義に対する関心や、彼らの政治理念のベースとなる「現実主義」の要素も取り入れるべきではないか、と著者のウィルシーが提案しているように思われるという。
そうだとすると、この本の提案は福音派読者に「リベラル政治」から「無神論」へ滑り落ちて行く危険はないだろうか、という反感を抱かせないとも限らない、と分析している。
At times, it almost seems as if Wilsey is suggesting that the way forward for evangelical conservatives, at least on this issue, is to embrace some of the realism of progressives when it comes to America’s track record in matters of public justice. If I’m reading Wilsey correctly, then I expect his approach will ruffle the feathers of many evangelicals who tend to be partisan Republicans who at least imply there is a slippery slope from progressive politics to outright atheism.
2015年11月9日月曜日
辺境にある宗教:日猶同祖論
昨日、立教大学であった(立教大学日本学研究所主催の)公開シンポジウム『近代日本の偽史伝説~その生成・機能・受容~』というのに行ってきた。
といっても、そのうちの一つ「日猶同祖論―旧約預言から『ダ・ヴィンチ・コード』まで―」だけなのですが・・・。
まあタイトルの三つの要素がそれぞれ関わりがあるといってもいいのですが、どれも少しだけといった方がいいでしょう。
最初に会場である「会議室」に入ったときの印象から。
10分ほど遅れて入室したので気後れはあったのですが、満員であったことと、集まっている人たちの着ているものの色を全体で感じると「濃いグレー」であったことと、(こう言うのはどうなのかと思いますが)オタクっぽい雰囲気であったこと、に気押されしました。
満員・・・
については、ある程度は予想していたのですが、しかし改めて目撃して驚きとともに思うのですが、単に「宗教学のテーマ」であっても、ものによっては結構注目を集めることはできると思います。
しかしこのような(サブカル的)テーマこそ関心のある人を惹きつけるのかな、と感じましたね。
オタクっぽい雰囲気・・・
いわゆる都市伝説とか、周辺的な場所で流布する言説、正面きってのアカデミックな追跡に馴染まない混沌感のあるテーマに萌を感じる人たちが結構集まっている印象でしたね。(それが偏見でしょうが身に纏っているものの色からインプットしてしまったのですが・・・。)
発表した津城寛文(つしろ・ひろふみ)氏は筑波大教授で、講義テーマや著者名から「現代日本の宗教性、スピリチュアリティ」を研究されているみたいですね。
紹介にもありますが、「宗教学、宗教社会学」の方面ということのようです。
『日猶同祖論』を本格的に意識したことはまだないのですが、小嶋の属する「日本聖泉基督教会連合」は戦前中田重治が始めたホーリネス運動と関係があり、その歴史の中で「ユダヤ問題」を通して間接的に『日猶同祖論』と関わりがあります。
(その断片をこの記事に紹介しました。)
一番後ろの席で、少し聞こえにくい面もあったので、内容についての紹介や評はとても無理だが、中で印象に残ったことを一つだけ。
おうおうにして一部の(こう言う表現は使っていなかったが)ゲテモノ・キワモノに反応する人たちのファンタジーや妄想を刺激して市場が形成され情報流通がなされるわけだが、そこで生成される「陰謀論や終末論」はアカデミックな取り扱いが難しいため無視されやすい。
しかし、「現実社会に表面化する」ときに、時にオウム真理教事件のように社会的に破壊的インパクトを与えることもある。研究者は無視すべきではない。
といったメッセージが伝わってきた。
といっても、そのうちの一つ「日猶同祖論―旧約預言から『ダ・ヴィンチ・コード』まで―」だけなのですが・・・。
まあタイトルの三つの要素がそれぞれ関わりがあるといってもいいのですが、どれも少しだけといった方がいいでしょう。
最初に会場である「会議室」に入ったときの印象から。
10分ほど遅れて入室したので気後れはあったのですが、満員であったことと、集まっている人たちの着ているものの色を全体で感じると「濃いグレー」であったことと、(こう言うのはどうなのかと思いますが)オタクっぽい雰囲気であったこと、に気押されしました。
満員・・・
については、ある程度は予想していたのですが、しかし改めて目撃して驚きとともに思うのですが、単に「宗教学のテーマ」であっても、ものによっては結構注目を集めることはできると思います。
しかしこのような(サブカル的)テーマこそ関心のある人を惹きつけるのかな、と感じましたね。
オタクっぽい雰囲気・・・
いわゆる都市伝説とか、周辺的な場所で流布する言説、正面きってのアカデミックな追跡に馴染まない混沌感のあるテーマに萌を感じる人たちが結構集まっている印象でしたね。(それが偏見でしょうが身に纏っているものの色からインプットしてしまったのですが・・・。)
発表した津城寛文(つしろ・ひろふみ)氏は筑波大教授で、講義テーマや著者名から「現代日本の宗教性、スピリチュアリティ」を研究されているみたいですね。
紹介にもありますが、「宗教学、宗教社会学」の方面ということのようです。
『日猶同祖論』を本格的に意識したことはまだないのですが、小嶋の属する「日本聖泉基督教会連合」は戦前中田重治が始めたホーリネス運動と関係があり、その歴史の中で「ユダヤ問題」を通して間接的に『日猶同祖論』と関わりがあります。
(その断片をこの記事に紹介しました。)
一番後ろの席で、少し聞こえにくい面もあったので、内容についての紹介や評はとても無理だが、中で印象に残ったことを一つだけ。
おうおうにして一部の(こう言う表現は使っていなかったが)ゲテモノ・キワモノに反応する人たちのファンタジーや妄想を刺激して市場が形成され情報流通がなされるわけだが、そこで生成される「陰謀論や終末論」はアカデミックな取り扱いが難しいため無視されやすい。
しかし、「現実社会に表面化する」ときに、時にオウム真理教事件のように社会的に破壊的インパクトを与えることもある。研究者は無視すべきではない。
といったメッセージが伝わってきた。
2015年3月15日日曜日
ダイアリー 2015/3/15
めったに投稿がないので、余り前後の脈絡もない記事となります。
しかして「ダイアリー」のカテゴリーが選択されることに・・・。
今回はブックノートです。
昨今の「政治と宗教」の話題と言うと、イスラム過激派テロとか(最近はかなり下火になったが)米国でのキリスト教右派(ファンダメンタリズムを原理主義と訳して紛らわしくなった)や福音主義者などであろうか・・・。
政教分離によって政治を含めた公共圏では「宗教は存在しないはず・・・」と思われたところどっこいそうではない状況をどのように理解するかの「西洋版」入門としても、この(後に教皇ベネディクト16世となる)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ドイツを代表する知識人である哲学者ユルゲン・ハーバーマスの対話が収録されている本である。
↑目次を紹介したが、《訳者解説》のページ数を示したように、メインの2論文の倍以上の解説が付いている。
メイン論文は剣道の試合で言うと、「挨拶を終わって竹刀を合わせて間合いを確認した」 程のものであろうと思う。
今後このような議論を土台にして対論が交わされて行くためのレールを敷設したほどの意義ではないかと思う。
※議論の仕組みは、「世俗社会の枠組み」でどのように宗教が参加できるか、そのルールを説明してる観のあるハーバーマスが「兄貴分」とも思われるのだが、内容を見ると「(今や仲間に入れてもらう立場である)弟分」のラッツィンガーの方が「偉そうな素振り」を見せているかのようである。
興味深かったのは(恐らく宗教事情に疎い)日本の読者のために訳者である三島が書いた解説文だ。
近代のカトリックの世俗国家・社会との位置関係を、特に「第2バチカン公会議」以降の変化に焦点を合わせながら、ラッツィンガーの個人的思想史背景を巧みに解説している。
これだけでも十分読み応えがある。
三島の説明で使用されている文献で重要なのは、ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』であるが、一般教養人でも十分認識していない「世俗化の諸相」を照合しながら、『ポスト世俗化時代の哲学と宗教(カトリック)』を説明している。
※邦訳が待たれるチャールズ・テイラー『世俗化の時代』とともに必読の書であろう。(テイラーもカサノヴァの議論と対話しながら自説を展開している。779ページ脚注1)
以下解説文から3箇所引用
特に(3)で引用した部分に対する教会側の見解は如何に、と言う重大な関心があるだろう。
しかして「ダイアリー」のカテゴリーが選択されることに・・・。
今回はブックノートです。
ハーバーマス,ユルゲン/ラッツィンガー,ヨーゼフ(三島憲一訳)
『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)
昨今の「政治と宗教」の話題と言うと、イスラム過激派テロとか(最近はかなり下火になったが)米国でのキリスト教右派(ファンダメンタリズムを原理主義と訳して紛らわしくなった)や福音主義者などであろうか・・・。
政教分離によって政治を含めた公共圏では「宗教は存在しないはず・・・」と思われたところどっこいそうではない状況をどのように理解するかの「西洋版」入門としても、この(後に教皇ベネディクト16世となる)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ドイツを代表する知識人である哲学者ユルゲン・ハーバーマスの対話が収録されている本である。
まえがき・・・フロリアン・シュラー
『民主主義的法治国家における政治以前の基盤』・・・ユルゲン・ハーバーマス
1. 世俗化された立憲国家の、実践理性を源泉とした基礎づけ
2. 国家公民の連帯はどのようにして再生産されうるのか
3. 社会的な紐帯が切れてしまうならば
付論
4. 二重で相互補完的な学習過程としての世俗化
5. 信仰を持った市民と世俗化された市民がどのように交流したらよいのか
『世界を統べているもの』・・・ヨーゼフ・ラッツィンガー
-自由な国家における政治以前の道徳的基盤-
1. 権力と法
2. 権力の新たな形態、その抑制に関する新たな問い
3. 法の前提 法-自然-理性
4. 異文化対話とその帰するところ
5. 結論
著者について
《訳者解説》
『変貌するカトリック教会とディスクルス倫理』(53-125ページ)
↑目次を紹介したが、《訳者解説》のページ数を示したように、メインの2論文の倍以上の解説が付いている。
メイン論文は剣道の試合で言うと、「挨拶を終わって竹刀を合わせて間合いを確認した」 程のものであろうと思う。
今後このような議論を土台にして対論が交わされて行くためのレールを敷設したほどの意義ではないかと思う。
※議論の仕組みは、「世俗社会の枠組み」でどのように宗教が参加できるか、そのルールを説明してる観のあるハーバーマスが「兄貴分」とも思われるのだが、内容を見ると「(今や仲間に入れてもらう立場である)弟分」のラッツィンガーの方が「偉そうな素振り」を見せているかのようである。
興味深かったのは(恐らく宗教事情に疎い)日本の読者のために訳者である三島が書いた解説文だ。
近代のカトリックの世俗国家・社会との位置関係を、特に「第2バチカン公会議」以降の変化に焦点を合わせながら、ラッツィンガーの個人的思想史背景を巧みに解説している。
これだけでも十分読み応えがある。
三島の説明で使用されている文献で重要なのは、ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』であるが、一般教養人でも十分認識していない「世俗化の諸相」を照合しながら、『ポスト世俗化時代の哲学と宗教(カトリック)』を説明している。
※邦訳が待たれるチャールズ・テイラー『世俗化の時代』とともに必読の書であろう。(テイラーもカサノヴァの議論と対話しながら自説を展開している。779ページ脚注1)
以下解説文から3箇所引用
(1)ラッツィンガーの(青年期のリベラル神学から後退したかに見える)宗教性と言った具合である。
ラッツィンガーの立場ははっきりしていた。この世での解放や歴史の完成よりも神の前での回心こそが重要である。政治的行動よりも聖体を囲む静かな内省を、「正しい行動 Orthopraxis」への叫びよりも祈りを、「下からの教会」よりも「内なる教会」を、と論じた。簡単に言えば、ユートピアではなく、キリストの再臨を待つ静観的終末論である。特に神学とマルクシズムの「野合」には厳しい。(98-99ページ)
(2)ラッツィンガーの近代理解の視座
そのパターンとは、近代は解体の時代であり、頽落の文化であり、「中心の喪失」・・・と「価値の崩壊」をその特徴としている、とするものである。かつての共同体にあった明確な生の意味が崩壊し、社会と文化にまとまりがなくなり、個人もグループもそれぞれ勝手な軌道を歩んでいる、というのだ。(107ページ)
(3)ハーバーマスとの違い
しかし、脱出の思想である以上、起源への問いはあまり意味がない。共通善こそ人権を保障するというテーゼをラッツィンガーがしきりと語るのも、新アリストテレス主義でありながら、普遍主義であろうとする彼の議論戦略である。ハーバーマスとの違いは明らかである。人権は、法に保障されたすべての権利と同様に法的構築物・・・であり、技術的な諸権利・・・とは、道徳的根拠を持っている点で異なるだけである、とするハーバーマスは、その根拠に関しても、天賦人権説はもちろん、ラッツィンガーのように、伝統に由来する実体論の色濃いそれは採用しない。関係性としての日常会話からも読み取れるディスクルスの規則とその手続き性から、人権の相互承認を、つまり共同の主観性の承認関係から人権の法化を考えるのがハーバーマスの方式である。ハーバーマスの立場は、近代を解体とは見ずに、むしろ、多くの場合暴力であった伝統を越えて、これまでになかった別の可能性を近代に見る。(112-113ページ)
特に(3)で引用した部分に対する教会側の見解は如何に、と言う重大な関心があるだろう。
2014年5月1日木曜日
中国でキリスト教が勢力拡大している
つい先日、2030年には中国が世界最大のキリスト教国になるのではないか、との推測が記事となってメディアに流れた。
例えばハッフィントン日本
ヤン教授は、Religion in China: Survival and Revival under Communist Rule
と言う本(オックスフォード大学出版会、2011年)を著している。
上の記事にもあるように、現在北米パーデュー大学のCenter on Religion and Chinese Society
を通して中国のキリスト教情勢を発信している。
英語圏ジャーナリズムはどうもこのヤン教授に大分依存しているようだ。
共産党政権監視の下、「どのように中国でキリスト教が勢力を伸ばせるのか」、と言う問いにヤン教授は国内に2000店あるマクドナルドが、言わばアウトレットとなっているとこの動画で説明している。
暫くヤン教授から目を離せないだろう。
例えばハッフィントン日本
パデュー大学で社会学を研究するフェンガン・ヤン(楊鳳岡)教授は、中国のキリスト教信者数は将来アメリカを抜き、世界最大のキリスト教人口を抱える国になると推測している。
ヤン教授は、イギリス紙・テレグラフの記事でこう述べている。このフェンガン・ヤン(楊鳳岡)教授と言うのがどうも中国のキリスト教情勢を世界に伝える主要な人物となっているようだ。
ヤン教授は、Religion in China: Survival and Revival under Communist Rule
と言う本(オックスフォード大学出版会、2011年)を著している。
上の記事にもあるように、現在北米パーデュー大学のCenter on Religion and Chinese Society
を通して中国のキリスト教情勢を発信している。
英語圏ジャーナリズムはどうもこのヤン教授に大分依存しているようだ。
共産党政権監視の下、「どのように中国でキリスト教が勢力を伸ばせるのか」、と言う問いにヤン教授は国内に2000店あるマクドナルドが、言わばアウトレットとなっているとこの動画で説明している。
暫くヤン教授から目を離せないだろう。
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