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2016年12月15日木曜日

Religiocification、とは何か?

聞いたことありますか?

Religiocification、は名詞形ですから、動詞であれば、religiocificate、となるでしょうがいずれにしても辞書に登録されていることばではありません。 


「religiocification」をググルと気がつくように、シカゴ大のマーティン・マーティー教授が長年に渡り「アメリカの政治社会(公共圏)に姿を現す“宗教的装い”」現象を叙述するのに用いてきた造語です。

とまあ、そうは書きましたが)まだそんなまとまった風に書けるほど関連記事を読んだわけではありません。 

たまたまマーティー教授が自身の名前を冠した研究所(シカゴ大のMartin Marty Center)が発行するオンライン誌
Sightings (Religion in Public Life)」 
に「2016年を振り返って」まとめている記事、The Religiocification of Hate、(2016年12月12日)に使っていて「ほー、どんなニュアンスなんだろう?」と思ったことがきっかけでこの記事を書こうと思った次第です。

2016年は「憎しみ」の年!!

さて、マーティー教授は「今年は憎しみ(hate)が取り分け目立った年だった」と振り返りながら「憎しみ」の病理的な性格がどのようなメカニズムを持つか二人の識者の洞察を改めて紹介します。
For the second time in this year of hatreds—and the third in 15 months—we quote Else Frenkel-Brunswick, specialist on the “ethnocentric personality,” who observed that in the case of the hater, “even his hate is mobile and can be directed from one object to another”; and John Dewey, who noted that people “do not shoot because targets exist, but they set up targets in order that throwing and shooting may be more effective and significant.”
(1)エルゼ・フレンクル-ブランズウィック・・・憎しみはターゲットを特定しない。憎しみの矛先は浮動的だ。
(2)ジョン・デューイ・・・人々が憎しみを表に出して(誰かに)ぶつけるのは対象となる相手が存在するからではなく、ぶつけることによって憎しみが威力を発揮し意義深くなるからだ。

それからピュー・宗教調査センターの「差別」に関する調査結果の数字を関連させるのですが、
 ・モスレム、82%
 ・黒人、76%
 ・同性愛者、76%
というようになっていくわけですが、特にモスレムへの差別が目立って増加した(前年比12%増)ことを受けて「差別→憎しみ→浮動的」と捉えたみたいです。


さて実は筆者にとっての今回の記事の本題は、人種差別とか宗教に絡んだヘイトではなく、「religiocification」の用い方なのです。

この用語を使う方はマーティー教授の他に余り見られないので個人的専門用語として置けばいいのかもしれませんが、せっかくですからマーティー教授が他のどんな現象にこの語を使っているか簡単に見てみたいと思います。(以下は順不同、ランダムです。)

 (1)政治権力崇拝the worship of political power, the religiocification of patriotism )
 (2)黒人宗教指導者による公民権運動
 (3)米大統領就任式the "religiocification"of the presidential transition)

などです。


以上の使い方から見られるのは、政教分離政策を取る米国において、公共圏での「宗教的」な面がかなり目立つようになる現象を特に「religiocification」を使って注目するのだと思います。

※つまり世俗化するヨーロッパと少し異なり、米国では宗教が公共圏にしっかり付着してくる事象が結構多いんだよ、ということでまさに「サイティングス」の必要を主張しているみたいですね。

ということで締めくくりをしますと、The Religiocification of Hate、とは本来浮動的なヘイトが今年は特に(宗教グループである)モスレムに際立って向かった年だった、ということになるかと思います。

※以下はオマケです。(ある方がドイツ語のSakralisierungに相当する英語を探している、という質問サイトでのやりとりです。それを見るとsanctificationなどに並んでマーティー教授の造語であるreligiocificationを連想したのですね。


[おまけ]

Sakralisierung?

Actually, I have not even found an exact German word, but it is about: to make something "sacred" (= with religion related), i.e. With religion. See also "secular" - "secularization"
I do not know if it would be called in German "sacrification", "sacralization" or "sacralization" or so ...
Is there a word in English (preferably AE)? Or how would the word "tinker"
"Sacrification"? "Sacralization" or something else?

religiocification
M. E. Marty, A Nation of Behavers, Chicago, University of Chicago Press, 1976, p. 14.
"the religiocification of secular humanism"
See also http://books.google.com/books?id=Q8OclZWNgE0C...

Martin E. Marty, "Context", January 1, 2002, Volume 34, Number 1.
Sometimes people from the world of science resist the religiocification of science in
the name of both science and religion. Here Jerome Groopman, M.D. writes on the
“curious coupling of science and religion”:
http://www.contextonline.org/samples/ct020101.pdf

Martin E. Marty, "We're no Holier for our Holy War", New York Times, July 22, 1981
.2,2CHICAGO - One year into its holy war, the United States, is not, and stands small chance of becoming, a holier, happier, more civil, or more moral nation. Last summer, during the election campaign, citizens began to see what in the black movement used to be called the ''religiocification'' of politics. Now, the unpromising language of the crusade or jihad corrupts the news media and disrupts society. It is time for a cease-fire.
http://topics.nytimes.com/top/reference/times... 


This is a neologism that Marty ascribes to Alfred B. Cleage. It probably expresses what you want. A Google search reveals 38 hits, and all of them seem to stem from Martin E. Marty.

Another possibility: desecularization (once you've established what you mean by "secularization")

"sacralization" is a possibility but also refers to ossification of the sacrum. I suffer from partial sacralization because the left side of my sacrum has fused to my pelvis.

"sanctification" refers to the process of making something holy (@#4 one "c" too many) 

2016年11月8日火曜日

宗教と文化(メディア)と政治

聖書が語る(?)ものとして過激に映像化されてきた(sensationalized)のが「携挙(ラプチャー/rapture)」であろう。

映像化されるような元となった「神学」はディスペンセーショナリズムと呼ばれる19世紀の産物である。(簡単な背景説明として、新約聖書学者、ベン・ワイザリントンの動画をご覧ください。)



もとは「米国の保守的キリスト教の一グループの聖書解釈/神学」は、しかしD・L・ムーディーなどのリバイバリズム(19世紀の信仰復興)運動によってどんどん拡がっていった。

この「宗教的うねり」は20世紀に入り政治の世界にも浸透していった。(例として、ビリー・グラハムと歴代大統領、最近の研究としてマシュー・A・サットンの、American Apocalypse: A History of Modern Evangelicalism、がある。)

今や「ビリー・グラハム」といっても「それって誰?」という人の方が多くなってきたかもしれないが、かつて「アメリカの偉大な伝道者」として登場してきた1950年代の頃(冷戦時代の始まりの頃)、
クルセードで盛んに「携挙」の時期を予測していたのですね・・・。

政治の世界だけでなく「映画産業」という文化、エンターテイメント・メディアにもどんどん浸透していった。

「携挙」イメージのヘビー・ユースは「黙示録的終末」のテーマとともにもはやハリウッド(ホラー)映画の常連の観がある。(アポカリプティック映画リストというウィキ項目で1950年代以降のものを十年毎に区切ってリストアップしている。)

「携挙」イメージは、もとはといえば極めて限られたものであったのが、様々なメディアを通して今や一般の人にもかなり「共有される文化」になったといっても過言ではないだろう。

たとえば簡単な動画クリップの「携挙」だとこんな感じになる。



「携挙」はまた格好の悪戯のアイデアともなる。




たまたまこんなことを検索していた時に見つけました。

テレビや映画などの「メディアとキリスト教保守主義・福音主義」や「メディアと保守政治」のつながりを研究している

ヘザー・ヘンダーショットさん。

現在はMIT(マサチューセッツ工科大)の「比較メディア研究」教授をしています。


2004年には『イエスのために世界を揺らす: メディアとキリスト教保守福音主義』という本を書いています。(Shaking The World For Jesus、シカゴ大学出版)



2004年当時はニューヨーク市立大で教えていましたが、世俗メディア(映画)にキリスト教の(サブカルチャー・テーマである)「携挙/アポカリプティック」が浸透するプロセスを分析しようとしています。


個人的には関心があってもこの辺のことを研究対象とするのはとても大変な感じがします。

でも「宗教とメディアの関係」研究はもっと必要でしょうね。

2015年11月27日金曜日

市民宗教から公共宗教へ

まがりなりにも「市民宗教」という概念を用いて「アメリカと日本の市民宗教比較」を博士論文のテーマにした(プロスペクタスを書くまでで頓挫したが)者として、

藤本龍児
『アメリカの公共宗教:多元社会における精神性』 
(NTT出版、2009年)

は歓迎である。

※藤本氏の博士論文の方は、「市民宗教」が目指す、社会哲学的議論を中心にしたもので(それがべラーが狙っていたものであったが)筆者がやろうとしたものとは少し狙いが異なるが・・・。 

藤本氏の本は主にアメリカにおける政教関係の制度的発展に伴って「どのように宗教と政治社会が関わってきたか」 を概観しながら「公共宗教」のありうべき形態を模索したものだと思う。

今年フランスで2度大きなテロ事件があったが、グローバル社会の枠組み作りで課題となっている、公共(市民社会)形成における宗教の問題を突きつけられるにつけ、これがまさに喫緊の課題となっていることを思わされる。

藤本氏は、たとえば、「近代主義」と「原理主義」との対立を次のようにまとめている。

 目的のレベルとは、ありうべき理想像、目指すべき世界像のことを指す。その理想的世界像において、近代主義者と原理主義者の世界観は、鋭く対立している。近代主義者は「宗教を排除した理想的世界像」を描くが、それに対して原理主義者は「宗教を前提とした理想的世界像」を描く。言い換えれば、近代主義者が、あくまでも<世俗内の原理>に基づいて公的領域を組織しようとするのに対して、原理主義者は、どこまでも<世俗外の原理>に基づいて公的領域を形成しようとするのである。これが、近代主義と原理主義の根本的な対立である。
 しかし、あらためて考えてみたい。確かに、両者の目的とする理想的世界像は鋭く対立しているのであるが、それにもかかわらず、近代主義者も原理主義者も、目指すべき世界像をもって、そこに進んでいこうとする意識をもっている点では変わらない。そうした意味で両者は同じ根をもっているのである。とすれば、両者は、進歩史観や進歩思想を共有しているとは言えないか。なぜなら、進歩史観とは「歴史は理想的世界に向かって進んでいくものだ」と考える歴史観であるし、進歩思想とは「その理想的世界を実現すべく主体的に社会や政治にかかわっていこうとする意識や観念体系」のことだからである。であるならば、終末論に基づいて千年王国という理想的世界像へ向かう志向性をもっている点では、原理主義も進歩思想に通じていると考えられるのである。[175](120ページ)
[175] 厳密には、千年王国説には「前千年王国説」と「後千年王国説」があり、後者が進歩思想に親和的であると考えられる。原理主義は、神学のうえでは「前千年王国説」に立っているが、実際には「後千年王国説」に近い行動をとる。この区別については、第五章を参照。
文化多元主義多文化主義の区別については、文化多元主義を次のようにまとめている。
 まず「民族性」は、他者や他の文化からの干渉をまぬがれる事柄であるとし、それを「私的領域」に位置づけた。次に「国民性」は、他者や他の文化との交渉によって形成されたり維持されたりする事柄であるとし、それを「公的領域」に位置づけた。このように「私的領域」においてエスニック文化の多様性を承認しながら、同時に「公的領域」において共通性を確保したのである。こうした思想が、文化多元主義にほかならない。[278](190-1ページ)
そして多文化主義の課題を次のようにまとめている。
多文化主義の要求には、大別して「差別の是正」と「差異の承認」という二つの要求があった。「差異の承認」を強調して、単一の文化に固執するアフリカ中心主義のような多文化主義の形態は、排他的な自文化中心主義に陥ったり、連帯意識を阻害するという意味での「分裂」や「争いの場」を招いたりしかねない。また、分裂の危機を回避すべく、もう一度アングロ・サクソン文化を中心にアメリカを統合しようとする保守的な解決策は、多文化主義の「差別の是正」という要求に抵触する部分が大きい。そして、普遍性や中立性を掲げるリベラリズムの理論は、「差別の是正」の要求にたいしては有効でありながら、「差異の承認」の要求にたいしては実質的に対応することが難しいのである。したがって、自文化中心主義者にせよ、保守派にせよ、そしてリベラリズムにせよ、いずれも多元社会を成立させるための理論を提供できていない、ということなのである。(196-7ページ)

そして多文化主義下での公共宗教の役割を次のように定義している。
公共宗教は、多文化主義が求める「差異の承認」に応えるべく「同一化の暴力」のみならず「普遍化の暴力」にも対抗し、その中間にある「多元化」を模索するものにほかならない。(209ページ)
一度ざっと読んだだけなので果たしてちゃんと議論を理解しているかどうか心配だが、最初の引用で(オレンジ色で)強調した部分を、今日のISISのような原理主義を念頭に吟味すると「進歩思想という次元での近代主義との類似」は大いに疑問と思わざるを得ない。

もちろん「イスラム国」のような存在を「例外」として排除するならば別だが・・・。
しかしその場合でも、一定の「共存関係」を構築する道を模索しなければならないのではないか。