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2017年5月14日日曜日

「日本人の無宗教」と科学的原理主義の可能性

こんなツイートがあった。


このツイートから何を引き出すか・・・

 (1)外来の宗教の「神」に対する「違和感」
 (2)創世記は「神話(当方キリスト者だが敢えてこの表現を用いる)」の類なので、わざわざまともにコメントするのもどうかと思う。(故に自身の宗教観・神観を述べる。つまり無神論。)

そんなところだろうか・・・。

ツイート主は恐らく東海大学で西洋美術史を教えておられる金沢百枝教授だと思われるが、このような反応を多くの学生がするのは大学生になる前の教育課程にその理由があるのではないか、と推理され次のようにツイートを続けている。

現場で教える方がなさる類推の方が確かかと思うが、
「日本人は無宗教」というようなことを信じ込まされる
とはいくらか踏み込んだ(飛躍の可能性も含む)類推ではないだろうか。

これはツイートであり推理の過程を大分省略してのものと受け取るべきなのだろうが・・・。


当方には20年前くらい、某専門学校で「キリスト教倫理」のクラスを数年担当した経験しかないので、その時のことを思い出しての印象に過ぎないのだが、「違和感」や「わざわざ感」のような反発めいた感情が生徒たちの感想の背後にあったように思われるのだ。

ただ金沢教授が指摘したような背景があるとすると、逆に筆者としては別な方向である推理が働き始める。

それは殆どの学生が受け入れているだろう「進化論」と原理的に相容れない(と思われている)「創世記」を読まされるのはどういうことか・・・という不満めいた感情である。

おおよそ「宗教的な枠組み」が西洋美術の根底にあることは致し方ない。しかし、だからといって「西洋美術を(よりよく)理解する」ため「ユダヤ・キリスト教創世神話」にまで付き合わされる義理はあるのだろうか・・・。
額面通りだと「(大方の日本人の)無宗教」は「(キリスト教の『神』に敵対的な議論をする)無神論」ではないだろう。

スピリチュアルへの関心を含めると、要は「宗教的なもの、神的なもの」に対して概して鷹揚なのである。(何が宗教であり、神は実在するのか不在なのか、等の議論が低調というかそもそも好まれない。)

米国では文化的キリスト教が進化論と対立した長い歴史があり、現在でも「(いわゆる)キリスト教原理主義」は「進化論」を対立的に捉えている。

ちょうどそれをひっくり返したような形で、鷹揚な無宗教観が支配的な日本では「進化論」はある種の「科学的原理主義」のようなものになっているのではないか。

西洋美術を学ぶ時に必須と思われるユダヤ・キリスト教の古典的ソースである聖書の「創世記」、いやもっと厳密に言えば「創世神話」に対する「違和感」「わざわざ感」の背後にはこの「科学的原理主義」からの反発・反論があり、それが多くの学生たちをして「神というのは人間の想像物で、実際にはいない」という趣旨のことをわざわざ書かせたのではなかろうか。


以上、このツイートに触発されて簡単に思考実験をしてみた。

命中はしていないだろうが、少しかすったくらいはしたかな・・・。


※別の方はこの同じツイートに触発されてもっと高尚な哲学的議論の入口へといざなっているようだ。


2014年6月30日月曜日

世界の宗教 知っ得 2

 シリーズ名は「世界の宗教」ですが、現時点では身の周りの人から聞き集めたエピソードを紹介しているだけです。

 まだ「宗教と社会」の簡単イントロ段階なので、なるべく難しい話は避けるように努力しています。

 で、今日は多分「神道」と言うことになると思います。

 のっけから「えっ、神道って『世界宗教』なの?」と驚かれそうですが、上記の話の運びでそうなっているまでです。



 ある方から聞いた話です。

 小さな会社なのだそうですが、立ち上げに当たって近くの神社にお参りする、と言うことになったそうです。

 その方はキリスト者なので「自分はキリスト者だから遠慮したいのだが・・・」と暗に断ろうとしたら、社長と言うかボスが「これは宗教じゃない。会社のためなのだから。」と半ば強制される感じがしたそうです。

 良く聞く話ですよね。要するに会社でも、何でも一つの集団がまとまって行動する時の「(お参りと言う)儀式」のことです。

 「宗教ではない。習俗だ。」と説明されたりもします。確かに使われ方はそうです。

 よくプロ野球チームの春季キャンプが始まると、たいてい先ず近くの神社にチーム全員でお参りします。
 そんな時思うのです。チームの中には宗教的背景では色々な選手(スタッフもか)いるだろうに、どうしているのだろうと。


 と言うわけで、改めて「神道」と言う問題を考えてみると、なかなか「宗教」と言う自覚がなさそうなのですね。まして「世界宗教」などと言うことになるとなおさらです。

 「神道」と言うと何か「体系的」なものをイメージしますが、むしろ神社やその境内を先にイメージした方が分かりやすいのではないでしょうか。

 とにかく区別と言うことでは「参道」や「鳥居」や、と「聖なる空間・御神体の祀られている場所」への物理的アプローチはうまく出来ています。

 そしてその過程での様々な儀式的所作があります。

 そんなに考えることもない。むしろ感ずるのが中心。


 試しに東京のど真ん中、明治神宮英語HPを見てみました。

 御神体は明治天皇と昭憲皇后になっております。

 どういう意味でdeitiesなのかは説明されていませんので、人間が死後「神」に祀られる習慣のない文明圏ではなかなか理解されないのではないでしょうか。


 さて「神道」とは、日本至る所にある神社とそこに祀られている神々の総体であるとすると、何か「宗教学的分類」上ややこしい面があると思うのです。

 ごく初歩的な感想で言うと、「神道」で一括りにされる「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、それとも祀られた個々の神を単位に「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、と言うことです。

 さらにごく簡単に日本におけるこのような「神の祀られ方」を振り返ってみる時、本来であれば「氏神」間での区別や対抗があってもおかしくなかったのが、次第に日本が国家として統合されていく過程で、「氏神」たちも階層的に整理され、靖国神社をトップにした明治期の「国家神道」体制に整備されていった、と言うことのようです。

 と言うことは、
神道とは、国家統合(最初のエピソードにあげた集団統合)機能が優先されたものであり、個々の神社の御神体への信仰はこの機能が確保されたもとであるなら「自由に」発揮できる(それゆえ余り拘束力のない緩い)信仰体系なのだ。
と言うことでしょうか。少なくとも近代史においては。

 日本において多くの人が「無宗教」を選択する背景には、緩い「宗教」としての神道が一つあるのではないでしょうか。

 そして会社のボスが「宗教ではない」神社へのお参りを所属メンバーに半ば強制的に求めることが出来るのも、個人的信仰対象としてではなく、あくまでも「集団統合」として神社参拝を考えるからなのでしょう。

 宗教とは、「信仰の論理」は個人ですが、「統合の論理」では集団であり、ともに「宗教的機能」には違いないですが後者は「宗教」とは認識されず、しばしば「習俗」だと看做されるのですね。

 首相の靖国神社参拝説明は、この宗教論理(「信仰=個人」対「統合=社会集団)の錯綜を用いたレトリックになりやすい、と言えば当たらずと言えども遠からず、でしょうか・・・。

2014年5月28日水曜日

ダイアリー 2014/5/28

もうちょっとまとまった形で情報提供できたらよいのですが、現状では余力がなく思いつくままに、と言うことで「ダイアリー」形式を取っています。

《世俗化》

「ダイアリー 2014/5/24」でユルゲン・ハーバーマスを紹介しました。

一旦は「世俗化が完了した近代国家・社会の枠組み」で宗教を計算外にしていたハーバーマスが、近年(1985年くらいを境に)意欲的に「宗教を現代社会理論と政治の舞台での役者としている」かを示すのが、ポスト世俗化時代の哲学と宗教ですね。
前教皇ベネディクト一六世との討論です。

欧米圏における、18世紀啓蒙主義以降の「世俗化」とは、政治を含めた社会における「教会」の権威の縮小(市民社会及び個人の教会的権威からの自立)であり、政教分離を通して宗教が相対的に影響力を失い、その感化の範囲も「個人の内心」に限定されてくる過程を指します。

この歴史過程をある程度決定論的に見る人たちが考える「世俗化」とは、即ち科学思考が浸透すればやがて宗教は必要なくなり消滅する、と言う見方でした。

このような欧米知識人の間で支配的な「世俗化」論に対し、「それは実際とは異なるだろう」と挑戦したのが、2007年テンプルトン賞、2008年に京都賞(稲盛財団)、を受賞したカナダ人のチャールズ・テイラーです。


彼のA Secular Age(『世俗の時代』未邦訳)が2007年に出版されて以来、多方面で彼のテーゼと分析が議論されています。

(このブログとは直接関連させていませんが)既に「ツイッター(@yamakoete)」でご紹介した、

です。

《無神論》

(合理主義的、科学主義的知識人にとっては常識とも言える)「一方的な世俗化」論は無神論者の観測でもあったのですが、予想に反して宗教と言う迷妄がなかなか表舞台から退場しないのに業を煮やしている無神論者の一人が、英国の代表的無神論者のリチャード・ドーキンス氏です。


しかしこんなに平然と「宗教は幻想(ハルシネーション)だ。自分はそんなものには用はない。」と言い切っているドーキンス氏ですが、 最近の新聞記事では
“I would describe myself as a secular Christian in the same sense as secular Jews have a feeling for nostalgia and ceremonies,” said Dawkins. (リンク)
とのこと。
「世俗のキリスト者」とは、「一方的な世俗化」論者にとっては論理矛盾のはずですが・・・。

そこが宗教・信仰の面白いところです。
そんな簡単に割り切れません。

※ A Secular Age(『世俗の時代』)は多分どこかが邦訳を進めているのではないかと思います。