モルモン教といえば、ユタ州。
州都はソルトレーク・シティー。
むかし北米旅行したときに行きました。
そこにあるブリガム・ヤング大学を会場にもたれた国際法と宗教学会
みたいな会合に、全世界から90人の学者や専門家が招かれた。
ところがそのうちの一人、カリフォルニア大学サンタバーバラ校のマーク・ジャーゲンズマイヤー教授が直前になってキャンセルした。
その理由は・・・。
ブリガム・ヤング大学の学生でモルモン信徒として入学する学生が、もしその間モルモンの信仰を変えたりやめたりした場合は、学籍を失うという規則なのだそう。
その規則を変えようとしている学生グループが、この学会の参加者たちに、あなたたちが集まる大学にはこう言う規則があるのですが、とイーメールのメッセージで訴えたわけです。
その訴えを受けて、ジャーゲンズマイヤー教授は「良心的理由」から会議をボイコットしたということです。
以上、ハッフィントンポストの宗教担当記者のジャナ・リース。
※興味深いことに、ジャナはプリンストン神学校に行ってモルモンに改宗したと言う変り種。
大学という知的探求の場所で、改宗も含めた信仰に対するオープンな追及を抑圧するような規則の正当性・妥当性の問題は、なかなか根が深いと思われます。
巣鴨(東京都豊島区)をベースにする共同学習会。 「小振りな」コロキアムなので「小ロキアム」とした。関心分野は「宗教」と「社会」。学問的には、宗教社会学と、社会倫理を主に用いる。 コミュニケーション言語として英語も用いる。 A tiny colloquium based in Sugamo,Toshima-ku, Tokyo, Japan. We use the disciplines of Sociology of Religion and Social Ethics to discuss the contemporary issues of both local and global society.
2015年10月10日土曜日
ポスト世俗と超越
本当に久し振りの更新です。
たまたま読んだブログ記事の紹介です。
イーナ・プレトリウス(発音は定かでない)さんは、現在はスイス在住のフェミニスト神学者。
ハイデルベルク大で博士号を取得し、現在はフリーランスで著作・講義などをしているようです。
Is There a Postsecular-transcendence?
宗教の多元化で、イベントに集まる人々は、様々な宗教的背景を持つ。
世俗化した情況で、無宗教的に会を持った方がいいか。
たとえば、キリスト教関連の集会では、祈りや賛美を織り交ぜてもいいのか。
迷うところです。
イーナさんは、たとえ世俗化したとは言えど、何かしら超越的なもの対する感覚は残っているだろうし、それを尊重してもよいのではないか。
とすると決まった祈りや賛美といった形式の儀式ではなく、沈黙のときをおいて、各自の宗教性に従ってその(超越との交流の)ときを過ごしたらいかがか。
という提案をなさっています。
※ドイツ人の方ですが、英語も読みやすいです。
たまたま読んだブログ記事の紹介です。
イーナ・プレトリウス(発音は定かでない)さんは、現在はスイス在住のフェミニスト神学者。
ハイデルベルク大で博士号を取得し、現在はフリーランスで著作・講義などをしているようです。
Is There a Postsecular-transcendence?
宗教の多元化で、イベントに集まる人々は、様々な宗教的背景を持つ。
世俗化した情況で、無宗教的に会を持った方がいいか。
たとえば、キリスト教関連の集会では、祈りや賛美を織り交ぜてもいいのか。
迷うところです。
イーナさんは、たとえ世俗化したとは言えど、何かしら超越的なもの対する感覚は残っているだろうし、それを尊重してもよいのではないか。
とすると決まった祈りや賛美といった形式の儀式ではなく、沈黙のときをおいて、各自の宗教性に従ってその(超越との交流の)ときを過ごしたらいかがか。
という提案をなさっています。
※ドイツ人の方ですが、英語も読みやすいです。
2015年4月26日日曜日
『宗教崩壊』
世俗化という社会学用語は、
"secularization thesis"とか
"secularization theory"とも言われるように、
「科学的世界観によって宗教的世界観はやがて消滅する」とか、
「近代化によって宗教は社会の中心から私的領域に後退して行く」、
と言う風に受け取られてきた。
直前の記事でハーバーマスの『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)紹介したように、事情は大分変わってきた。
グローバルな社会を理解するのに、そして対応するには、どうやら「宗教リテラシー」がますます大切になっていくように見える。
日本の事情はどうか、と言う時にとても興味深い連載記事が日経ビジネスのサイトで始まった。
その名も宗教崩壊。
人口減少や高齢化などの近未来社会を予兆する現象として宗教、特に仏教の現在をレポートする記事だ。
毎回ちょっとした歴史的背景などを織り交ぜた記事となっているので、余り仏教や宗教に詳しくなくても読み易くなっている。
何か本を買って学習する前に、ネットで手軽に読めるものを探している人には、オススメ、としておこう。
筆者は
2015年2月4日 寺は「時代遅れ」でもいい 芥川賞作家・玄侑宗久さんの仏教的視座
まで読んだが、玄侑宗久さんにインタヴューする記事は、(ツッコミどころ満載で)特に興味深かった。イチオシ。
"secularization thesis"とか
"secularization theory"とも言われるように、
「科学的世界観によって宗教的世界観はやがて消滅する」とか、
「近代化によって宗教は社会の中心から私的領域に後退して行く」、
と言う風に受け取られてきた。
直前の記事でハーバーマスの『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)紹介したように、事情は大分変わってきた。
グローバルな社会を理解するのに、そして対応するには、どうやら「宗教リテラシー」がますます大切になっていくように見える。
日本の事情はどうか、と言う時にとても興味深い連載記事が日経ビジネスのサイトで始まった。
その名も宗教崩壊。
人口減少や高齢化などの近未来社会を予兆する現象として宗教、特に仏教の現在をレポートする記事だ。
毎回ちょっとした歴史的背景などを織り交ぜた記事となっているので、余り仏教や宗教に詳しくなくても読み易くなっている。
何か本を買って学習する前に、ネットで手軽に読めるものを探している人には、オススメ、としておこう。
筆者は
2015年2月4日 寺は「時代遅れ」でもいい 芥川賞作家・玄侑宗久さんの仏教的視座
まで読んだが、玄侑宗久さんにインタヴューする記事は、(ツッコミどころ満載で)特に興味深かった。イチオシ。
2015年3月15日日曜日
ダイアリー 2015/3/15
めったに投稿がないので、余り前後の脈絡もない記事となります。
しかして「ダイアリー」のカテゴリーが選択されることに・・・。
今回はブックノートです。
昨今の「政治と宗教」の話題と言うと、イスラム過激派テロとか(最近はかなり下火になったが)米国でのキリスト教右派(ファンダメンタリズムを原理主義と訳して紛らわしくなった)や福音主義者などであろうか・・・。
政教分離によって政治を含めた公共圏では「宗教は存在しないはず・・・」と思われたところどっこいそうではない状況をどのように理解するかの「西洋版」入門としても、この(後に教皇ベネディクト16世となる)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ドイツを代表する知識人である哲学者ユルゲン・ハーバーマスの対話が収録されている本である。
↑目次を紹介したが、《訳者解説》のページ数を示したように、メインの2論文の倍以上の解説が付いている。
メイン論文は剣道の試合で言うと、「挨拶を終わって竹刀を合わせて間合いを確認した」 程のものであろうと思う。
今後このような議論を土台にして対論が交わされて行くためのレールを敷設したほどの意義ではないかと思う。
※議論の仕組みは、「世俗社会の枠組み」でどのように宗教が参加できるか、そのルールを説明してる観のあるハーバーマスが「兄貴分」とも思われるのだが、内容を見ると「(今や仲間に入れてもらう立場である)弟分」のラッツィンガーの方が「偉そうな素振り」を見せているかのようである。
興味深かったのは(恐らく宗教事情に疎い)日本の読者のために訳者である三島が書いた解説文だ。
近代のカトリックの世俗国家・社会との位置関係を、特に「第2バチカン公会議」以降の変化に焦点を合わせながら、ラッツィンガーの個人的思想史背景を巧みに解説している。
これだけでも十分読み応えがある。
三島の説明で使用されている文献で重要なのは、ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』であるが、一般教養人でも十分認識していない「世俗化の諸相」を照合しながら、『ポスト世俗化時代の哲学と宗教(カトリック)』を説明している。
※邦訳が待たれるチャールズ・テイラー『世俗化の時代』とともに必読の書であろう。(テイラーもカサノヴァの議論と対話しながら自説を展開している。779ページ脚注1)
以下解説文から3箇所引用
特に(3)で引用した部分に対する教会側の見解は如何に、と言う重大な関心があるだろう。
しかして「ダイアリー」のカテゴリーが選択されることに・・・。
今回はブックノートです。
ハーバーマス,ユルゲン/ラッツィンガー,ヨーゼフ(三島憲一訳)
『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)
昨今の「政治と宗教」の話題と言うと、イスラム過激派テロとか(最近はかなり下火になったが)米国でのキリスト教右派(ファンダメンタリズムを原理主義と訳して紛らわしくなった)や福音主義者などであろうか・・・。
政教分離によって政治を含めた公共圏では「宗教は存在しないはず・・・」と思われたところどっこいそうではない状況をどのように理解するかの「西洋版」入門としても、この(後に教皇ベネディクト16世となる)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ドイツを代表する知識人である哲学者ユルゲン・ハーバーマスの対話が収録されている本である。
まえがき・・・フロリアン・シュラー
『民主主義的法治国家における政治以前の基盤』・・・ユルゲン・ハーバーマス
1. 世俗化された立憲国家の、実践理性を源泉とした基礎づけ
2. 国家公民の連帯はどのようにして再生産されうるのか
3. 社会的な紐帯が切れてしまうならば
付論
4. 二重で相互補完的な学習過程としての世俗化
5. 信仰を持った市民と世俗化された市民がどのように交流したらよいのか
『世界を統べているもの』・・・ヨーゼフ・ラッツィンガー
-自由な国家における政治以前の道徳的基盤-
1. 権力と法
2. 権力の新たな形態、その抑制に関する新たな問い
3. 法の前提 法-自然-理性
4. 異文化対話とその帰するところ
5. 結論
著者について
《訳者解説》
『変貌するカトリック教会とディスクルス倫理』(53-125ページ)
↑目次を紹介したが、《訳者解説》のページ数を示したように、メインの2論文の倍以上の解説が付いている。
メイン論文は剣道の試合で言うと、「挨拶を終わって竹刀を合わせて間合いを確認した」 程のものであろうと思う。
今後このような議論を土台にして対論が交わされて行くためのレールを敷設したほどの意義ではないかと思う。
※議論の仕組みは、「世俗社会の枠組み」でどのように宗教が参加できるか、そのルールを説明してる観のあるハーバーマスが「兄貴分」とも思われるのだが、内容を見ると「(今や仲間に入れてもらう立場である)弟分」のラッツィンガーの方が「偉そうな素振り」を見せているかのようである。
興味深かったのは(恐らく宗教事情に疎い)日本の読者のために訳者である三島が書いた解説文だ。
近代のカトリックの世俗国家・社会との位置関係を、特に「第2バチカン公会議」以降の変化に焦点を合わせながら、ラッツィンガーの個人的思想史背景を巧みに解説している。
これだけでも十分読み応えがある。
三島の説明で使用されている文献で重要なのは、ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』であるが、一般教養人でも十分認識していない「世俗化の諸相」を照合しながら、『ポスト世俗化時代の哲学と宗教(カトリック)』を説明している。
※邦訳が待たれるチャールズ・テイラー『世俗化の時代』とともに必読の書であろう。(テイラーもカサノヴァの議論と対話しながら自説を展開している。779ページ脚注1)
以下解説文から3箇所引用
(1)ラッツィンガーの(青年期のリベラル神学から後退したかに見える)宗教性と言った具合である。
ラッツィンガーの立場ははっきりしていた。この世での解放や歴史の完成よりも神の前での回心こそが重要である。政治的行動よりも聖体を囲む静かな内省を、「正しい行動 Orthopraxis」への叫びよりも祈りを、「下からの教会」よりも「内なる教会」を、と論じた。簡単に言えば、ユートピアではなく、キリストの再臨を待つ静観的終末論である。特に神学とマルクシズムの「野合」には厳しい。(98-99ページ)
(2)ラッツィンガーの近代理解の視座
そのパターンとは、近代は解体の時代であり、頽落の文化であり、「中心の喪失」・・・と「価値の崩壊」をその特徴としている、とするものである。かつての共同体にあった明確な生の意味が崩壊し、社会と文化にまとまりがなくなり、個人もグループもそれぞれ勝手な軌道を歩んでいる、というのだ。(107ページ)
(3)ハーバーマスとの違い
しかし、脱出の思想である以上、起源への問いはあまり意味がない。共通善こそ人権を保障するというテーゼをラッツィンガーがしきりと語るのも、新アリストテレス主義でありながら、普遍主義であろうとする彼の議論戦略である。ハーバーマスとの違いは明らかである。人権は、法に保障されたすべての権利と同様に法的構築物・・・であり、技術的な諸権利・・・とは、道徳的根拠を持っている点で異なるだけである、とするハーバーマスは、その根拠に関しても、天賦人権説はもちろん、ラッツィンガーのように、伝統に由来する実体論の色濃いそれは採用しない。関係性としての日常会話からも読み取れるディスクルスの規則とその手続き性から、人権の相互承認を、つまり共同の主観性の承認関係から人権の法化を考えるのがハーバーマスの方式である。ハーバーマスの立場は、近代を解体とは見ずに、むしろ、多くの場合暴力であった伝統を越えて、これまでになかった別の可能性を近代に見る。(112-113ページ)
特に(3)で引用した部分に対する教会側の見解は如何に、と言う重大な関心があるだろう。
2015年2月6日金曜日
ダイアリー 2015/2/6
久し振りの投稿です。
今年初となります。
前回、お詫びとお知らせを書きました。
この「小さなコロキアム」が目指しているが、まだ実現していない「共同学習会」の二テーマの2番目、(2)宗教の「今」、だったらこんなテキストで、こんな内容だったのだが・・・と言うことを書きました。
あれから暫く経って、もうすぐ春を迎えようとなっている今、考えているのは、「共同学習会」の二テーマの(1)簡単な「世界の宗教」入門の方です。
今年4月には何とかしたいなー、と細々ながらプランを練り始めました。
既に昨年初めにはテキストとなるべき本を物色して、「これ」というものを購入しました。
一応紹介しておくと、
要点解説90分で分かる! ビジネスマンのための「世界の宗教」超入門
です。
(宗教情報センター研究員 藤山みどり氏による書評をご参考に)
「90分」や「ビジネスマンのための」、とキャッチコピーが付けられているように、とにかく手っ取り早く世界の主な宗教を概観しておこうというものです。
「共同学習会」としてはなるべく敷居を低くしたかったので、このような「軽い」テキストを考えてみたわけですが。
しかしそれから1年。
イスラムに関わることがクローズアップしてきました。
「世界の宗教」の中でも、イスラム教を学習するべき時が来たのではないか・・・と感じています。
と、現段階では「ダイアリー」で書くにとどめておきます。
今年初となります。
前回、お詫びとお知らせを書きました。
この「小さなコロキアム」が目指しているが、まだ実現していない「共同学習会」の二テーマの2番目、(2)宗教の「今」、だったらこんなテキストで、こんな内容だったのだが・・・と言うことを書きました。
あれから暫く経って、もうすぐ春を迎えようとなっている今、考えているのは、「共同学習会」の二テーマの(1)簡単な「世界の宗教」入門の方です。
今年4月には何とかしたいなー、と細々ながらプランを練り始めました。
既に昨年初めにはテキストとなるべき本を物色して、「これ」というものを購入しました。
一応紹介しておくと、
要点解説90分で分かる! ビジネスマンのための「世界の宗教」超入門
です。
(宗教情報センター研究員 藤山みどり氏による書評をご参考に)
「90分」や「ビジネスマンのための」、とキャッチコピーが付けられているように、とにかく手っ取り早く世界の主な宗教を概観しておこうというものです。
「共同学習会」としてはなるべく敷居を低くしたかったので、このような「軽い」テキストを考えてみたわけですが。
しかしそれから1年。
イスラムに関わることがクローズアップしてきました。
「世界の宗教」の中でも、イスラム教を学習するべき時が来たのではないか・・・と感じています。
と、現段階では「ダイアリー」で書くにとどめておきます。
2014年9月11日木曜日
お詫びとお知らせ
(ごく少数の選ばれた)読者の皆様
関心を維持して、時々来訪されていることを感謝します。
6月以降更新がありませんでした。
夏休みの間に休みと夏バテとで更新が滞ってしまいました。
また今年春から一応やろうかなと思っていた共同学習会も夏休み以降に延期して・・・と思っていたところがこれもままならず、無期限延期としておく状態です。
アドバルーンは掲げたが「商品が店頭に並ばない」状態ですいません。
一応共同学習会への勧誘1でご紹介した
関心を維持して、時々来訪されていることを感謝します。
6月以降更新がありませんでした。
夏休みの間に休みと夏バテとで更新が滞ってしまいました。
また今年春から一応やろうかなと思っていた共同学習会も夏休み以降に延期して・・・と思っていたところがこれもままならず、無期限延期としておく状態です。
アドバルーンは掲げたが「商品が店頭に並ばない」状態ですいません。
一応共同学習会への勧誘1でご紹介した
(2)宗教の「今」が少なくとも今年に限っては「お流れ」になりましたので、お詫びと共にその会でテキスト使用予定だった本を紹介することにします。
現代の文脈で捉える「宗教」の問題やありよう。
もちろん日本を中心に概観していくことになる。
・現代(日本)社会に「宗教」はどのような役割を果たしているのか。
・あるいは上手くマッチングできずに現代社会から取り残されていないか。
毎年出ているシリーズ物ですが、あえて2013年を選んだのは、キリスト新聞社「ミニストリー」誌編集長、松谷信司が取り上げられているからでもありました。
出来たら松谷さんを招いてトークでもしてもらえたらな・・・などと妄想していました。
その他にも何人か知人や知人の知人が取り上げられていました。
と言うわけで、「お詫び」と捲土重来を期しての「お知らせ」でした。
2014年6月30日月曜日
世界の宗教 知っ得 2
シリーズ名は「世界の宗教」ですが、現時点では身の周りの人から聞き集めたエピソードを紹介しているだけです。
まだ「宗教と社会」の簡単イントロ段階なので、なるべく難しい話は避けるように努力しています。
で、今日は多分「神道」と言うことになると思います。
のっけから「えっ、神道って『世界宗教』なの?」と驚かれそうですが、上記の話の運びでそうなっているまでです。
ある方から聞いた話です。
小さな会社なのだそうですが、立ち上げに当たって近くの神社にお参りする、と言うことになったそうです。
その方はキリスト者なので「自分はキリスト者だから遠慮したいのだが・・・」と暗に断ろうとしたら、社長と言うかボスが「これは宗教じゃない。会社のためなのだから。」と半ば強制される感じがしたそうです。
良く聞く話ですよね。要するに会社でも、何でも一つの集団がまとまって行動する時の「(お参りと言う)儀式」のことです。
「宗教ではない。習俗だ。」と説明されたりもします。確かに使われ方はそうです。
よくプロ野球チームの春季キャンプが始まると、たいてい先ず近くの神社にチーム全員でお参りします。
そんな時思うのです。チームの中には宗教的背景では色々な選手(スタッフもか)いるだろうに、どうしているのだろうと。
と言うわけで、改めて「神道」と言う問題を考えてみると、なかなか「宗教」と言う自覚がなさそうなのですね。まして「世界宗教」などと言うことになるとなおさらです。
「神道」と言うと何か「体系的」なものをイメージしますが、むしろ神社やその境内を先にイメージした方が分かりやすいのではないでしょうか。
とにかく区別と言うことでは「参道」や「鳥居」や、と「聖なる空間・御神体の祀られている場所」への物理的アプローチはうまく出来ています。
そしてその過程での様々な儀式的所作があります。
そんなに考えることもない。むしろ感ずるのが中心。
試しに東京のど真ん中、明治神宮の英語HPを見てみました。
御神体は明治天皇と昭憲皇后になっております。
どういう意味でdeitiesなのかは説明されていませんので、人間が死後「神」に祀られる習慣のない文明圏ではなかなか理解されないのではないでしょうか。
さて「神道」とは、日本至る所にある神社とそこに祀られている神々の総体であるとすると、何か「宗教学的分類」上ややこしい面があると思うのです。
ごく初歩的な感想で言うと、「神道」で一括りにされる「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、それとも祀られた個々の神を単位に「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、と言うことです。
さらにごく簡単に日本におけるこのような「神の祀られ方」を振り返ってみる時、本来であれば「氏神」間での区別や対抗があってもおかしくなかったのが、次第に日本が国家として統合されていく過程で、「氏神」たちも階層的に整理され、靖国神社をトップにした明治期の「国家神道」体制に整備されていった、と言うことのようです。
と言うことは、
日本において多くの人が「無宗教」を選択する背景には、緩い「宗教」としての神道が一つあるのではないでしょうか。
そして会社のボスが「宗教ではない」神社へのお参りを所属メンバーに半ば強制的に求めることが出来るのも、個人的信仰対象としてではなく、あくまでも「集団統合」として神社参拝を考えるからなのでしょう。
宗教とは、「信仰の論理」は個人ですが、「統合の論理」では集団であり、ともに「宗教的機能」には違いないですが後者は「宗教」とは認識されず、しばしば「習俗」だと看做されるのですね。
首相の靖国神社参拝説明は、この宗教論理(「信仰=個人」対「統合=社会集団)の錯綜を用いたレトリックになりやすい、と言えば当たらずと言えども遠からず、でしょうか・・・。
まだ「宗教と社会」の簡単イントロ段階なので、なるべく難しい話は避けるように努力しています。
で、今日は多分「神道」と言うことになると思います。
のっけから「えっ、神道って『世界宗教』なの?」と驚かれそうですが、上記の話の運びでそうなっているまでです。
ある方から聞いた話です。
小さな会社なのだそうですが、立ち上げに当たって近くの神社にお参りする、と言うことになったそうです。
その方はキリスト者なので「自分はキリスト者だから遠慮したいのだが・・・」と暗に断ろうとしたら、社長と言うかボスが「これは宗教じゃない。会社のためなのだから。」と半ば強制される感じがしたそうです。
良く聞く話ですよね。要するに会社でも、何でも一つの集団がまとまって行動する時の「(お参りと言う)儀式」のことです。
「宗教ではない。習俗だ。」と説明されたりもします。確かに使われ方はそうです。
よくプロ野球チームの春季キャンプが始まると、たいてい先ず近くの神社にチーム全員でお参りします。
そんな時思うのです。チームの中には宗教的背景では色々な選手(スタッフもか)いるだろうに、どうしているのだろうと。
と言うわけで、改めて「神道」と言う問題を考えてみると、なかなか「宗教」と言う自覚がなさそうなのですね。まして「世界宗教」などと言うことになるとなおさらです。
「神道」と言うと何か「体系的」なものをイメージしますが、むしろ神社やその境内を先にイメージした方が分かりやすいのではないでしょうか。
とにかく区別と言うことでは「参道」や「鳥居」や、と「聖なる空間・御神体の祀られている場所」への物理的アプローチはうまく出来ています。
そしてその過程での様々な儀式的所作があります。
そんなに考えることもない。むしろ感ずるのが中心。
試しに東京のど真ん中、明治神宮の英語HPを見てみました。
御神体は明治天皇と昭憲皇后になっております。
どういう意味でdeitiesなのかは説明されていませんので、人間が死後「神」に祀られる習慣のない文明圏ではなかなか理解されないのではないでしょうか。
さて「神道」とは、日本至る所にある神社とそこに祀られている神々の総体であるとすると、何か「宗教学的分類」上ややこしい面があると思うのです。
ごく初歩的な感想で言うと、「神道」で一括りにされる「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、それとも祀られた個々の神を単位に「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、と言うことです。
さらにごく簡単に日本におけるこのような「神の祀られ方」を振り返ってみる時、本来であれば「氏神」間での区別や対抗があってもおかしくなかったのが、次第に日本が国家として統合されていく過程で、「氏神」たちも階層的に整理され、靖国神社をトップにした明治期の「国家神道」体制に整備されていった、と言うことのようです。
と言うことは、
神道とは、国家統合(最初のエピソードにあげた集団統合)機能が優先されたものであり、個々の神社の御神体への信仰はこの機能が確保されたもとであるなら「自由に」発揮できる(それゆえ余り拘束力のない緩い)信仰体系なのだ。と言うことでしょうか。少なくとも近代史においては。
日本において多くの人が「無宗教」を選択する背景には、緩い「宗教」としての神道が一つあるのではないでしょうか。
そして会社のボスが「宗教ではない」神社へのお参りを所属メンバーに半ば強制的に求めることが出来るのも、個人的信仰対象としてではなく、あくまでも「集団統合」として神社参拝を考えるからなのでしょう。
宗教とは、「信仰の論理」は個人ですが、「統合の論理」では集団であり、ともに「宗教的機能」には違いないですが後者は「宗教」とは認識されず、しばしば「習俗」だと看做されるのですね。
首相の靖国神社参拝説明は、この宗教論理(「信仰=個人」対「統合=社会集団)の錯綜を用いたレトリックになりやすい、と言えば当たらずと言えども遠からず、でしょうか・・・。
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