大学の講義で創世記を読み、天地創造図について話したら、コメントペーパーにかなりの割合の学生が、「神というのは人間の想像物で、実際にはいない」という趣旨のことを書いていて驚く。— Momo Kanazawa (@momokanazawa) 2017年5月13日
このツイートから何を引き出すか・・・
(1)外来の宗教の「神」に対する「違和感」
(2)創世記は「神話(当方キリスト者だが敢えてこの表現を用いる)」の類なので、わざわざまともにコメントするのもどうかと思う。(故に自身の宗教観・神観を述べる。つまり無神論。)
そんなところだろうか・・・。
ツイート主は恐らく東海大学で西洋美術史を教えておられる金沢百枝教授だと思われるが、このような反応を多くの学生がするのは大学生になる前の教育課程にその理由があるのではないか、と推理され次のようにツイートを続けている。
現場で教える方がなさる類推の方が確かかと思うが、「日本人は無宗教」というようなことを信じこまされる過程が、日本の中等教育にはあるんだろうか。— Momo Kanazawa (@momokanazawa) 2017年5月13日
「日本人は無宗教」というようなことを信じ込まされるとはいくらか踏み込んだ(飛躍の可能性も含む)類推ではないだろうか。
これはツイートであり推理の過程を大分省略してのものと受け取るべきなのだろうが・・・。
当方には20年前くらい、某専門学校で「キリスト教倫理」のクラスを数年担当した経験しかないので、その時のことを思い出しての印象に過ぎないのだが、「違和感」や「わざわざ感」のような反発めいた感情が生徒たちの感想の背後にあったように思われるのだ。
ただ金沢教授が指摘したような背景があるとすると、逆に筆者としては別な方向である推理が働き始める。
それは殆どの学生が受け入れているだろう「進化論」と原理的に相容れない(と思われている)「創世記」を読まされるのはどういうことか・・・という不満めいた感情である。
おおよそ「宗教的な枠組み」が西洋美術の根底にあることは致し方ない。しかし、だからといって「西洋美術を(よりよく)理解する」ため「ユダヤ・キリスト教創世神話」にまで付き合わされる義理はあるのだろうか・・・。額面通りだと「(大方の日本人の)無宗教」は「(キリスト教の『神』に敵対的な議論をする)無神論」ではないだろう。
スピリチュアルへの関心を含めると、要は「宗教的なもの、神的なもの」に対して概して鷹揚なのである。(何が宗教であり、神は実在するのか不在なのか、等の議論が低調というかそもそも好まれない。)
米国では文化的キリスト教が進化論と対立した長い歴史があり、現在でも「(いわゆる)キリスト教原理主義」は「進化論」を対立的に捉えている。
ちょうどそれをひっくり返したような形で、鷹揚な無宗教観が支配的な日本では「進化論」はある種の「科学的原理主義」のようなものになっているのではないか。
西洋美術を学ぶ時に必須と思われるユダヤ・キリスト教の古典的ソースである聖書の「創世記」、いやもっと厳密に言えば「創世神話」に対する「違和感」「わざわざ感」の背後にはこの「科学的原理主義」からの反発・反論があり、それが多くの学生たちをして「神というのは人間の想像物で、実際にはいない」という趣旨のことをわざわざ書かせたのではなかろうか。
以上、このツイートに触発されて簡単に思考実験をしてみた。
命中はしていないだろうが、少しかすったくらいはしたかな・・・。
※別の方はこの同じツイートに触発されてもっと高尚な哲学的議論の入口へといざなっているようだ。
この一連の感想の出発点は、美術史の授業でキリスト教を解説したところ「それは真理ではない」と学生に拒絶された人文学教師の困惑を述べられたツィート。それを読みながら思いだしたのは、上のようなベイルの真理様態の複数性の議論だったわけです。人文学の本質を考えるときに役立つように思うので。— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2017年5月13日
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