2020年5月8日金曜日

ついに!やっと!

ついに! やっと!
 (邦訳に取り掛かっていること自体はもうだいぶ前に聞いていた。)


チャールズ・テイラーの『世俗の時代』(名古屋大学出版会)が出版されることになりました。

上・下巻各8千円、
とちょっと普通の人では手を出さない値段ですが、「信仰」と「近代・現代」との関係を重層構造な歴史として(複雑なパターンの織物みたいなイメージ)理解する上で欠かせない本です。
原著で読み通すのは勿論大変ですが、邦訳でも余程腰を入れて読まないとすぐ腰砕けになるであろうテイラー渾身の大著。

『世俗の時代【上巻】』

近現代の特徴の一つとされる「世俗化」。しかし、人々は様々なかたちで信仰や霊性とともに生きている。では、西洋において神信仰はいかにして力を失い、個人の選択肢の一つとなったのか。壮大な歴史的展望のもとに宗教・思想・哲学の曲折に満ちた展開を描き出す記念碑的大著、ついに邦訳。
チャールズ・テイラー 著  千葉 眞 監訳  木部尚志・山岡龍一・遠藤知子 訳
価格  8,000円
A5判・上製・548頁
ISBN978-4-8158-0988-1  Cコード3010
未刊
 『世俗の時代【下巻】』

ノヴァ・エフェクト後の哲学 ——。現代人が陥った精神的苦境の根本にあるものとは何か。「生きる意味」や「自分らしさ」の探求、スピリチュアルなものの流行は、世俗化といかに関係するのか。壮大な歴史的展望のもとに宗教・思想・哲学の曲折に満ちた展開を描き出す記念碑的大著。
チャールズ・テイラー 著  千葉 眞 監訳  石川涼子・梅川佳子・高田宏史・坪光生雄 訳
価格  8,000円
A5判・上製・502頁
ISBN978-4-8158-0989-8  Cコード3010
未刊

2017年11月6日月曜日

チャールズ・テイラー

社会学者のカテゴリーで紹介するのは、ピーター・バーガーに続いて二人目となる。

チャールズ・テーラー(1931-)はカナダの著名な哲学者でカトリックの信者である。

著書も何冊も邦訳されているので紹介は省略する。

テイラーについては既に何度か書いてみた。

そしてこの宗教と社会ブログでもここに少し

テイラーの考察する現代西洋社会(というか、どのように今日の社会となったか)は教会関係者にとっても重要な意義がありながら、特に福音派にあっては余り取り上げられることはなかったように思う。
そんな中で哲学の分野に詳しいカルヴィン・カレッジのJ.K.A.スミスが、現代の文脈でキリスト教のメッセージを語るには、ちょうど海外宣教師がその土地の宗教を学ぶように(それが文化人類学というディシプリンになったわけだが)、いまやポスト・キリスト教になっている西洋の思想的精神的文脈がどういうものか先ず学ばなければならない、と紹介したのがチャールズ・テイラー『セキュラー・エイジ』(2007年)であった。

しかしテイラーの『セキュラー・エイジ』を読みこなすのはさすがに大変なので、その入門的なものを書いたのが How (Not) to Be Secular: Reading Charles Taylor


この紹介サイトでは著者インタヴュー動画が見られる。

そうこうしているうちに大衆的で浅薄な“福音”ではなく、もっと思想的にもガッチリした福音提示を目指す“新カルヴィン主義”のグループであるゴスペル・コーリション(TGC)のコリン・ハンセンが編集者となってテイラーの『セキュラー・エイジ』を多角的に吟味する論文集『Our Secular Age』を出した。
 (大和郷の教会ブログの関連紹介記事を同名カテゴリーでご参照ください。)


ちなみに編著者であるコリン・ハンセンがTGCウェブサイトで結構長い紹介記事を書いている

また、論文寄稿者の一人、アラステア・ロバーツが自身のブログに書いた紹介記事がこれ
他にもう一人、デレク・リシュマウィの自身のブログにおける紹介記事がこれ

テイラーの『セキュラー・エイジ』は邦訳出版されると思うが、スミスの本も、ハンセン編の論文集も邦訳出版されることは恐らくまずないだろう。

いずれにしてもどんな内容の論文集になっているか興味深い。

2017年10月17日火曜日

ダイアリー 2017/10/17

ツイッターを見ていたら、イラン留学中の方のツイートが目に留まり・・・。

(遡って)無宗教の日本人が、宗教的な環境で感じる「宗教」についての思いを語るツイートを拾ってみました。

















2017年8月10日木曜日

ハービー・コックス「世俗化」はどうなった?

ハーヴァード大学神学部(Harvard Divinity School)の有名教授ハービー・コックスが同校の創立200年祭の同窓会で「Whatever Happened to Secularization?」について話した。


1965年に『世俗都市The Secular City)』を出して世界中で売れに売れ、一躍有名になった。

それから50年経って「一体『世俗化』はどうなったんだ?」と聴衆に問いかけた。

その時のビデオがこれだ。



全体でも43分のトークは間に聴衆とのQ&Aを挟んだ、かなり砕けた感じのもの。

話題も豊富で面白いと思う。

コックスはバプテストの牧師で話しぶりも結構ミドルクラス的で親しみやすい。

とてもアイヴィーリーグの教授と言う雰囲気ではない。


トークは『世俗都市The Secular City)』出版とその後のエピソードから始まる。

この本はボンヘッファーの獄中書簡にある「非宗教的キリスト教」の問いに呼応して書かれたものであることをまず紹介。


宗教は「公共圏」から撤退し、近代化とともに衰退する・・・という「世俗化説(secularization thesis)」はこの50年で一体どうなったか・・・。

反証として挙げられたのはガンディー、キング牧師、マルコムX、それにフランシス教皇など。
(特に教皇との個人的謁見では去り際に教皇から「祈ってほしい」とリクエストされたことを紹介している。)

「世俗化」は結局世界的な潮流にはならず、ヨーロッパ及び北半球限定のものであった、という見方を強めている。
(メキシコのある神学校訪問でのエピソードで、この世俗化潮流に対抗することを「非神話化」ならぬ「非北半球化」と造語されていたことを紹介している。)

聴衆の質問の中には、北半球では「既成宗教」は数字的にはっきり衰退しているが・・・という問いにも、最後にまとめとして展望していたのは「聖性の分散化(dispersal of the sacred)」だった。

トークの中で、(1967年頃)キング牧師にバーミンガムに来て講演してほしいと頼まれたが、「えっ私が。なぜ」と思って問い返したところ、キング牧師から言われたことが・・・現在の日本の福音派教会も含めて・・・「えっ」という感じのものであった。(自分で聞いてのお楽しみ)


というわけで、全体的に聞きやすいしおすすめです。

2017年8月9日水曜日

自由主義 vs 根本主義

20世紀前半、1925年の『スコープス・トライアル』の前と後で、アメリカ・プロテスタント・キリスト教の様相が大きく変わった、とこの研究分野で第一人者ジョージ・マースデンは言う。


キリスト教保守派が一致団結して『ファンダメンタルズ』を出版したのは1910-1915。この攻勢に対して自由主義陣営は極めて「音なし」だった、とされてきたようです。

今朝このようなツイートがありました。


ちょっと判読しにくいですが、「いや彼らは充分に(ファンダメンタリストたちの攻勢に、『ファンダメンタルズ』に)気づいていた」のが分かる「インサイダー情報」だ、とこの手紙を発見して報告しています。

これに触発されて、おもにアメリカ宗教史家たちの会話が続いています。

興味のある方はどうぞ。

(よりこの論争の焦点や背景を知りたい方には、この記事などどうでしょう・・・。)

2017年7月16日日曜日

ピーター・バーガー(1929-2017)

お世話になった社会学者(故人も含めて)を紹介するということで、つい先ごろ亡くなったピーター・バーガーをトップバッターに選びました。

訃報を聞いての第一声(ツイート)は

バーガーの社会学については、アルフレッド・シュッツの多元リアリティ理論に依拠する・・・ことを少し書いた。(大和郷にある教会ブログ

いずれにしても「意味世界(リアリティ)」が社会的な構築(物)であると言う認識アプローチは様々な応用があるが、特に宗教(信仰)に対して伝統的なアプローチ(神学)とは大分異なる視点を提供する。(伝統的な神学だけをやってきた者には初めはなかなか馴染めないものであろう。)


さて、そのようなアプローチの理論的基礎としてバーガー&ルックマンの『現実の社会的構成』はよく使われ読まれたテキストブックだったと記憶している。


残念ながら筆者の手もとにはその原書が見つからない。(だいぶ昔に片付けてしまったようだ。)

その代わりと言っては何だが宗教社会学応用編となる三つの本と現代人の意識分析の本を書棚からピックアップして並べてみた。


時代的に言うと1970年代の本なので大分昔と言うことになる。

では追悼記事(オビチュアリー)を幾つか選んでリンクを貼っておきます。

上の方から順にお勧めですが、 三番目のアルバート・モラーのは7年前のインタヴュー記事で音声もあります。

それから最後に検索している時に見つけた論文を二つリンクしておきました。(後で時間が出来たら読んでみようかと思っています。)

The Precarious Vision of Peter Berger
by Martin E. Marty
July 3, 2017


(Washington Post)
Peter Berger, sociologist who argued for ongoing relevance of religion, dies at 88

Dr. Berger, born into a Jewish family in Vienna, planned to become a Lutheran minister before turning to academia, where he spent much of his career bridging reason and faith and defying easy labels.

Dr. Berger also made major contributions to the field known as sociology of knowledge, which studies the ways in which society shapes human thought. H is 1966 book “The Social Construction of Reality,” co-written with Thomas Luckmann, was ranked No. 5 on a list of the 20th century’s most influential works of sociology by the International Sociological Association and was translated into more than 20 languages.

Rethinking Secularization: A Conversation with Peter Berger
by Albert Mohler
October 11, 2010


Late scholar Peter Berger admitted 'big mistake' as sociologist of religion
by Christian Century staff
July 7, 2017

Alfred Schutz's Influence on American Sociologists and Sociology
by George Psathas




by Marek Chojnacki

[おまけ]
※ある社会学徒による「社会学者ピーター・バーガー自伝」というブログ記事が見つかりました。

2017年5月14日日曜日

「日本人の無宗教」と科学的原理主義の可能性

こんなツイートがあった。


このツイートから何を引き出すか・・・

 (1)外来の宗教の「神」に対する「違和感」
 (2)創世記は「神話(当方キリスト者だが敢えてこの表現を用いる)」の類なので、わざわざまともにコメントするのもどうかと思う。(故に自身の宗教観・神観を述べる。つまり無神論。)

そんなところだろうか・・・。

ツイート主は恐らく東海大学で西洋美術史を教えておられる金沢百枝教授だと思われるが、このような反応を多くの学生がするのは大学生になる前の教育課程にその理由があるのではないか、と推理され次のようにツイートを続けている。

現場で教える方がなさる類推の方が確かかと思うが、
「日本人は無宗教」というようなことを信じ込まされる
とはいくらか踏み込んだ(飛躍の可能性も含む)類推ではないだろうか。

これはツイートであり推理の過程を大分省略してのものと受け取るべきなのだろうが・・・。


当方には20年前くらい、某専門学校で「キリスト教倫理」のクラスを数年担当した経験しかないので、その時のことを思い出しての印象に過ぎないのだが、「違和感」や「わざわざ感」のような反発めいた感情が生徒たちの感想の背後にあったように思われるのだ。

ただ金沢教授が指摘したような背景があるとすると、逆に筆者としては別な方向である推理が働き始める。

それは殆どの学生が受け入れているだろう「進化論」と原理的に相容れない(と思われている)「創世記」を読まされるのはどういうことか・・・という不満めいた感情である。

おおよそ「宗教的な枠組み」が西洋美術の根底にあることは致し方ない。しかし、だからといって「西洋美術を(よりよく)理解する」ため「ユダヤ・キリスト教創世神話」にまで付き合わされる義理はあるのだろうか・・・。
額面通りだと「(大方の日本人の)無宗教」は「(キリスト教の『神』に敵対的な議論をする)無神論」ではないだろう。

スピリチュアルへの関心を含めると、要は「宗教的なもの、神的なもの」に対して概して鷹揚なのである。(何が宗教であり、神は実在するのか不在なのか、等の議論が低調というかそもそも好まれない。)

米国では文化的キリスト教が進化論と対立した長い歴史があり、現在でも「(いわゆる)キリスト教原理主義」は「進化論」を対立的に捉えている。

ちょうどそれをひっくり返したような形で、鷹揚な無宗教観が支配的な日本では「進化論」はある種の「科学的原理主義」のようなものになっているのではないか。

西洋美術を学ぶ時に必須と思われるユダヤ・キリスト教の古典的ソースである聖書の「創世記」、いやもっと厳密に言えば「創世神話」に対する「違和感」「わざわざ感」の背後にはこの「科学的原理主義」からの反発・反論があり、それが多くの学生たちをして「神というのは人間の想像物で、実際にはいない」という趣旨のことをわざわざ書かせたのではなかろうか。


以上、このツイートに触発されて簡単に思考実験をしてみた。

命中はしていないだろうが、少しかすったくらいはしたかな・・・。


※別の方はこの同じツイートに触発されてもっと高尚な哲学的議論の入口へといざなっているようだ。