2014年6月30日月曜日

世界の宗教 知っ得 2

 シリーズ名は「世界の宗教」ですが、現時点では身の周りの人から聞き集めたエピソードを紹介しているだけです。

 まだ「宗教と社会」の簡単イントロ段階なので、なるべく難しい話は避けるように努力しています。

 で、今日は多分「神道」と言うことになると思います。

 のっけから「えっ、神道って『世界宗教』なの?」と驚かれそうですが、上記の話の運びでそうなっているまでです。



 ある方から聞いた話です。

 小さな会社なのだそうですが、立ち上げに当たって近くの神社にお参りする、と言うことになったそうです。

 その方はキリスト者なので「自分はキリスト者だから遠慮したいのだが・・・」と暗に断ろうとしたら、社長と言うかボスが「これは宗教じゃない。会社のためなのだから。」と半ば強制される感じがしたそうです。

 良く聞く話ですよね。要するに会社でも、何でも一つの集団がまとまって行動する時の「(お参りと言う)儀式」のことです。

 「宗教ではない。習俗だ。」と説明されたりもします。確かに使われ方はそうです。

 よくプロ野球チームの春季キャンプが始まると、たいてい先ず近くの神社にチーム全員でお参りします。
 そんな時思うのです。チームの中には宗教的背景では色々な選手(スタッフもか)いるだろうに、どうしているのだろうと。


 と言うわけで、改めて「神道」と言う問題を考えてみると、なかなか「宗教」と言う自覚がなさそうなのですね。まして「世界宗教」などと言うことになるとなおさらです。

 「神道」と言うと何か「体系的」なものをイメージしますが、むしろ神社やその境内を先にイメージした方が分かりやすいのではないでしょうか。

 とにかく区別と言うことでは「参道」や「鳥居」や、と「聖なる空間・御神体の祀られている場所」への物理的アプローチはうまく出来ています。

 そしてその過程での様々な儀式的所作があります。

 そんなに考えることもない。むしろ感ずるのが中心。


 試しに東京のど真ん中、明治神宮英語HPを見てみました。

 御神体は明治天皇と昭憲皇后になっております。

 どういう意味でdeitiesなのかは説明されていませんので、人間が死後「神」に祀られる習慣のない文明圏ではなかなか理解されないのではないでしょうか。


 さて「神道」とは、日本至る所にある神社とそこに祀られている神々の総体であるとすると、何か「宗教学的分類」上ややこしい面があると思うのです。

 ごく初歩的な感想で言うと、「神道」で一括りにされる「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、それとも祀られた個々の神を単位に「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、と言うことです。

 さらにごく簡単に日本におけるこのような「神の祀られ方」を振り返ってみる時、本来であれば「氏神」間での区別や対抗があってもおかしくなかったのが、次第に日本が国家として統合されていく過程で、「氏神」たちも階層的に整理され、靖国神社をトップにした明治期の「国家神道」体制に整備されていった、と言うことのようです。

 と言うことは、
神道とは、国家統合(最初のエピソードにあげた集団統合)機能が優先されたものであり、個々の神社の御神体への信仰はこの機能が確保されたもとであるなら「自由に」発揮できる(それゆえ余り拘束力のない緩い)信仰体系なのだ。
と言うことでしょうか。少なくとも近代史においては。

 日本において多くの人が「無宗教」を選択する背景には、緩い「宗教」としての神道が一つあるのではないでしょうか。

 そして会社のボスが「宗教ではない」神社へのお参りを所属メンバーに半ば強制的に求めることが出来るのも、個人的信仰対象としてではなく、あくまでも「集団統合」として神社参拝を考えるからなのでしょう。

 宗教とは、「信仰の論理」は個人ですが、「統合の論理」では集団であり、ともに「宗教的機能」には違いないですが後者は「宗教」とは認識されず、しばしば「習俗」だと看做されるのですね。

 首相の靖国神社参拝説明は、この宗教論理(「信仰=個人」対「統合=社会集団)の錯綜を用いたレトリックになりやすい、と言えば当たらずと言えども遠からず、でしょうか・・・。