2015年12月26日土曜日

オウム真理教について

当ブログの開始の挨拶An Introductionに少し言及して以降、オウム真理教のことはまだ取り上げていない。

実は『大和郷にある教会』ブログでかなりの数の記事を書いてきたためこちらのブログまでは手が回らない状態である。

しかしあるところからオウム真理教についての記事を頼まれ、書き溜めたブログ記事を多少まとめる形で原稿を書いた。

その原稿ももし機会があればこちらのブログに掲載しようと思うが、今回はまず『大和郷にある教会』ブログに書き溜めた記事をこちらのサイトに時系列に整理してリンクを付けようと思う。

オウム真理教への一視点 (2012年6月6日)

 未解決事件2:オウム真理教(NHKスペシャル)を見ての感想。

オウム真理教その② (2012年7月2日)

 7/1朝日の朝刊の『ニュースの本棚』で中島岳志による「一から読むオウム」と題した書評文で取り上げられた著作を紹介。

オウム真理教その③ (2012年7月10日)

 連載化を決定し名前を「オウム真理教ノート」とする次第。


オウム真理教ノート 2012/7/16

 加藤周一の『オウム真理教遠聞』(1999年)と『「オウム」と科学技術者』(2004年)

オウム真理教ノート 2012/7/23

 森達也『A』読後感

オウム真理教ノート 2012/7/30

 林郁夫『オウムと私』読後感

オウム真理教ノート 2012/8/16

 大田俊寛『オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義』読後感

オウム真理教ノート 2012/11/14

 村上春樹『アンダーグラウンド』読後感

オウム真理教ノート 2014/4/6

 野田成人『革命か戦争か』、高橋英利『オウムからの帰還』 読後感①

オウム真理教ノート 2014/4/13

 野田成人『革命か戦争か』、高橋英利『オウムからの帰還』 読後感②

オウム真理教ノート 2015/3/3

 地下鉄サリン事件から20年たったことでの森達也の総括的観察と、筆者の社会学的ノート

オウム真理教ノート 2015/5/3

 伊東乾『サイレント・ネイビー:地下鉄に乗った同級生』、宗形真紀子『二十歳からの20年間:“オウムの青春”の魔境を越えて』、鎌田東二『「呪い」を解く』読後感など

オウム真理教ノート 2015/8/8 

 森達也を引用しながらの中間報告のような・・・


以上「オウム真理教ノート」と題されている投稿は現在まで合計10本だが、オウム真理教関連では、他にも目ぼしいものがあるので紹介。

ナラティブの闘い(2014年2月27日) 

 は、村上春樹が『アンダーグラウンド』でやろうとしたことを述懐した文章を紹介している。


今後は「オウム真理教」関連の記事はなるべくこちらに掲載していこうと思っている。

 

  

2015年12月5日土曜日

フランス「ライシテ」とイスラム

フランスの政教関係を取り仕切る原則をライシテという。

そんなに知らないので、参考書が必要だが、最近の研究書で言うと、上智大学の伊達聖神(だて きよのぶ)氏の『ライシテ、道徳、宗教学』が思い浮かぶ。

一度図書館から借りて読もうとしたが、分厚いのでパラパラめくって終わってしまった。

そんな中、2015年にイスラム関連の二つの大きなテロ事件がパリで起こってしまった。

世俗(主義)社会フランスで、ムスリムたちはどのようにその宗教的背景を市民社会で現すのか。

またそれに対して世俗主義の市民たちはどのように受け止めるのか。

様々な線引きの問題がこれまでもあり、またこれからも続くのだろう。



そしてそのような「公共での信仰表現の線引き問題」の一つとして法廷で争われ、EUの人権法廷まで持ち込まれた「ヒジャブ(モスレム女性のスカーフ)」ケースに結論が出された。

フランスの「公共でのヒジャブ着用禁止令」がEUの人権法廷で支持されたのだ。

簡単だが「al-Quds al-Arabi紙」の記事が翻訳されてシノドスで読める。

 欧州人権裁判所、フランスの公務員ヒジャーブ着用禁止令を支持

英語だがこの記事は経緯や背景がもっと詳しい。

 

2015年12月1日火曜日

IAリサーチ・ノート 2015/12/01

2015年も終わろうとしている。

このブログ「宗教と社会」のテーマで言うと、やはり今年最も印象的な出来事は、パリで起こった二つの大きなテロ事件だ。

 シャルリー・エブド襲撃事件

 パリ同時多発テロ事件

実は西洋世界でのテロ事件はメディアにより多く・強く報道されるが、ツイッター等で報告されるテロやテロらしき殺傷事件は数多く、ほぼ日常的にさえ感じられる。

その中でやはり「イスラム」が絡んだ事件が多いとの印象は避けられないだろう。

現在米国で展開中の大統領指名候補を争うキャンペーンが繰り広げられているが、通常では大失言にも値する「人種」に絡んだ移民排斥発言が(共和党の)複数候補によってなされている模様だ。

その中でも格別先頭を行くトランプ候補の発言は過激だ。

いわゆる「イスラム恐怖症(イスラモフォビア)」の作用は、パリ同時多発テロ事件の影響によって再燃しており今後の大統領選も左右しかねない模様だ。


遅ればせながらというべきだろうか、ここに来てようやくイスラム過激派が引き起こすテロと彼らの宗教イデオロギーとの関連に注意を向ける必要があるのではないか、との認識を持ちつつある。

彼らが世界のあちこちで事件を起こす度、「イスラム過激派はイスラムではない。イスラムは平和的宗教だ。」とのアッピールがイスラム側からも、非イスラム側からも繰り返される。

当然である。グローバル社会にあって宗教を基にした対立が全面的に展開されるようになることを避けなければならないことは自明だからだ。

しかしだからといって「イスラム過激派は『イスラムという宗教』の名を語る殺戮集団」と片付けていいのだろうか。

やはり彼らの行動の背後にイデオロギーの問題があり、そしてそのイデオロギーが単なる暴力行為の正当化ではなく、彼らの暴力行動を引き起こす大きな要因となっている可能性があることを真面目に取り上げる必要があるのではないか。

彼らの宗教イデオロギーの中でも、特に「アポカリプティック」な過激思想に焦点が一つ絞られてきているように思う。

コーランの厳密な読み方や、イスラムという宗教の厳密な理解の問題はあるだろうが、とりあえず
 イスラム過激派とアポカリプティック思想
というテーマで素人の(アームチェア)リサーチを始めてみようと思い至った。

そして折々そのリサーチ・ノートを公開していこうと思うのであった。

名付けて「イスラム過激派思想リサーチ・ノート」、略してIA(Islam Apocalyptic) リサーチ・ノートの開始だ。


2015年11月27日金曜日

市民宗教から公共宗教へ

まがりなりにも「市民宗教」という概念を用いて「アメリカと日本の市民宗教比較」を博士論文のテーマにした(プロスペクタスを書くまでで頓挫したが)者として、

藤本龍児
『アメリカの公共宗教:多元社会における精神性』 
(NTT出版、2009年)

は歓迎である。

※藤本氏の博士論文の方は、「市民宗教」が目指す、社会哲学的議論を中心にしたもので(それがべラーが狙っていたものであったが)筆者がやろうとしたものとは少し狙いが異なるが・・・。 

藤本氏の本は主にアメリカにおける政教関係の制度的発展に伴って「どのように宗教と政治社会が関わってきたか」 を概観しながら「公共宗教」のありうべき形態を模索したものだと思う。

今年フランスで2度大きなテロ事件があったが、グローバル社会の枠組み作りで課題となっている、公共(市民社会)形成における宗教の問題を突きつけられるにつけ、これがまさに喫緊の課題となっていることを思わされる。

藤本氏は、たとえば、「近代主義」と「原理主義」との対立を次のようにまとめている。

 目的のレベルとは、ありうべき理想像、目指すべき世界像のことを指す。その理想的世界像において、近代主義者と原理主義者の世界観は、鋭く対立している。近代主義者は「宗教を排除した理想的世界像」を描くが、それに対して原理主義者は「宗教を前提とした理想的世界像」を描く。言い換えれば、近代主義者が、あくまでも<世俗内の原理>に基づいて公的領域を組織しようとするのに対して、原理主義者は、どこまでも<世俗外の原理>に基づいて公的領域を形成しようとするのである。これが、近代主義と原理主義の根本的な対立である。
 しかし、あらためて考えてみたい。確かに、両者の目的とする理想的世界像は鋭く対立しているのであるが、それにもかかわらず、近代主義者も原理主義者も、目指すべき世界像をもって、そこに進んでいこうとする意識をもっている点では変わらない。そうした意味で両者は同じ根をもっているのである。とすれば、両者は、進歩史観や進歩思想を共有しているとは言えないか。なぜなら、進歩史観とは「歴史は理想的世界に向かって進んでいくものだ」と考える歴史観であるし、進歩思想とは「その理想的世界を実現すべく主体的に社会や政治にかかわっていこうとする意識や観念体系」のことだからである。であるならば、終末論に基づいて千年王国という理想的世界像へ向かう志向性をもっている点では、原理主義も進歩思想に通じていると考えられるのである。[175](120ページ)
[175] 厳密には、千年王国説には「前千年王国説」と「後千年王国説」があり、後者が進歩思想に親和的であると考えられる。原理主義は、神学のうえでは「前千年王国説」に立っているが、実際には「後千年王国説」に近い行動をとる。この区別については、第五章を参照。
文化多元主義多文化主義の区別については、文化多元主義を次のようにまとめている。
 まず「民族性」は、他者や他の文化からの干渉をまぬがれる事柄であるとし、それを「私的領域」に位置づけた。次に「国民性」は、他者や他の文化との交渉によって形成されたり維持されたりする事柄であるとし、それを「公的領域」に位置づけた。このように「私的領域」においてエスニック文化の多様性を承認しながら、同時に「公的領域」において共通性を確保したのである。こうした思想が、文化多元主義にほかならない。[278](190-1ページ)
そして多文化主義の課題を次のようにまとめている。
多文化主義の要求には、大別して「差別の是正」と「差異の承認」という二つの要求があった。「差異の承認」を強調して、単一の文化に固執するアフリカ中心主義のような多文化主義の形態は、排他的な自文化中心主義に陥ったり、連帯意識を阻害するという意味での「分裂」や「争いの場」を招いたりしかねない。また、分裂の危機を回避すべく、もう一度アングロ・サクソン文化を中心にアメリカを統合しようとする保守的な解決策は、多文化主義の「差別の是正」という要求に抵触する部分が大きい。そして、普遍性や中立性を掲げるリベラリズムの理論は、「差別の是正」の要求にたいしては有効でありながら、「差異の承認」の要求にたいしては実質的に対応することが難しいのである。したがって、自文化中心主義者にせよ、保守派にせよ、そしてリベラリズムにせよ、いずれも多元社会を成立させるための理論を提供できていない、ということなのである。(196-7ページ)

そして多文化主義下での公共宗教の役割を次のように定義している。
公共宗教は、多文化主義が求める「差異の承認」に応えるべく「同一化の暴力」のみならず「普遍化の暴力」にも対抗し、その中間にある「多元化」を模索するものにほかならない。(209ページ)
一度ざっと読んだだけなので果たしてちゃんと議論を理解しているかどうか心配だが、最初の引用で(オレンジ色で)強調した部分を、今日のISISのような原理主義を念頭に吟味すると「進歩思想という次元での近代主義との類似」は大いに疑問と思わざるを得ない。

もちろん「イスラム国」のような存在を「例外」として排除するならば別だが・・・。
しかしその場合でも、一定の「共存関係」を構築する道を模索しなければならないのではないか。

2015年11月24日火曜日

アメリカ市民宗教と福音派:新刊紹介

殆どの西側先進諸国では「国家」と「教会」、「政治」と「宗教」が区別され分離されている。

とはいえ実際の政治社会では、その区別が判然としなくなるほどそれら二つの領域や概念が重なり合うことになる。

特に政治の領域において何かしらの「宗教」の役割(少し悪く言えば効能というか利用価値)が問われるし、実際アメリカのような国では伝統的にキリスト教を背景とした象徴的なフレーズや所作が公然と示威されることがある。

特に、社会学者ロバート・ベラー(1927-2013)の『アメリカ市民宗教』論文(1967年)で、一躍この「政治の次元における『公共宗教』」がクローズアップされることになった。

爾来『市民宗教(civil religion)』という視点は、アメリカの政治と宗教の重なる歴史的事象に関する様々な議論や分析に登場してきた。

つい最近出版された

John D. Wilsey. American Exceptionalism and Civil Religion: Reassessing the History of an Idea. Downers Grove, IL: IVP Academic, 2015. 263 pp. $22.00.



は、いわゆる「福音派」と呼ばれる神学校の歴史学教授が著したこのテーマに関する分析である。

その福音派にあって、どちらかというとより保守的なグループの論壇を形成する「ゴスペル・コーリション」で書評が出ているので紹介する。

The False Gospel of American Exceptionalism 

書評者はアメリカキリスト教史が専門と見られるネイサン・フィンだ。

福音派は概ねアメリカ国家とキリスト教の歴史的重なりを摂理的に受け入れ、国家支持とキリスト教信仰が「融合している」感覚で政治にコミットしやすい傾向を持っている。

しかし、いやそれだからこそ「アメリカ国家を特別視する」本の題名に用いられている「アメリカン・イクセプショナリズム」の問題に警戒が必要だと自覚を促しているようだ。

書評者によると、アメリカの福音派は今後、進歩派の社会正義に対する関心や、彼らの政治理念のベースとなる「現実主義」の要素も取り入れるべきではないか、と著者のウィルシーが提案しているように思われるという。

そうだとすると、この本の提案は福音派読者に「リベラル政治」から「無神論」へ滑り落ちて行く危険はないだろうか、という反感を抱かせないとも限らない、と分析している。
At times, it almost seems as if Wilsey is suggesting that the way forward for evangelical conservatives, at least on this issue, is to embrace some of the realism of progressives when it comes to America’s track record in matters of public justice. If I’m reading Wilsey correctly, then I expect his approach will ruffle the feathers of many evangelicals who tend to be partisan Republicans who at least imply there is a slippery slope from progressive politics to outright atheism.

2015年11月9日月曜日

辺境にある宗教:日猶同祖論

昨日、立教大学であった(立教大学日本学研究所主催の)公開シンポジウム『近代日本の偽史伝説~その生成・機能・受容~』というのに行ってきた。


といっても、そのうちの一つ「日猶同祖論―旧約預言から『ダ・ヴィンチ・コード』まで―」だけなのですが・・・。

まあタイトルの三つの要素がそれぞれ関わりがあるといってもいいのですが、どれも少しだけといった方がいいでしょう。


最初に会場である「会議室」に入ったときの印象から。

10分ほど遅れて入室したので気後れはあったのですが、満員であったことと、集まっている人たちの着ているものの色を全体で感じると「濃いグレー」であったことと、(こう言うのはどうなのかと思いますが)オタクっぽい雰囲気であったこと、に気押されしました。

満員・・・
 については、ある程度は予想していたのですが、しかし改めて目撃して驚きとともに思うのですが、単に「宗教学のテーマ」であっても、ものによっては結構注目を集めることはできると思います。
 しかしこのような(サブカル的)テーマこそ関心のある人を惹きつけるのかな、と感じましたね。

オタクっぽい雰囲気・・・
 いわゆる都市伝説とか、周辺的な場所で流布する言説、正面きってのアカデミックな追跡に馴染まない混沌感のあるテーマに萌を感じる人たちが結構集まっている印象でしたね。(それが偏見でしょうが身に纏っているものの色からインプットしてしまったのですが・・・。)

発表した津城寛文(つしろ・ひろふみ)氏は筑波大教授で、講義テーマや著者名から「現代日本の宗教性、スピリチュアリティ」を研究されているみたいですね。
紹介にもありますが、「宗教学、宗教社会学」の方面ということのようです。


『日猶同祖論』を本格的に意識したことはまだないのですが、小嶋の属する「日本聖泉基督教会連合」は戦前中田重治が始めたホーリネス運動と関係があり、その歴史の中で「ユダヤ問題」を通して間接的に『日猶同祖論』と関わりがあります。
(その断片をこの記事に紹介しました。)

一番後ろの席で、少し聞こえにくい面もあったので、内容についての紹介や評はとても無理だが、中で印象に残ったことを一つだけ。

おうおうにして一部の(こう言う表現は使っていなかったが)ゲテモノ・キワモノに反応する人たちのファンタジーや妄想を刺激して市場が形成され情報流通がなされるわけだが、そこで生成される「陰謀論や終末論」はアカデミックな取り扱いが難しいため無視されやすい。

しかし、「現実社会に表面化する」ときに、時にオウム真理教事件のように社会的に破壊的インパクトを与えることもある。研究者は無視すべきではない。

といったメッセージが伝わってきた。

2015年10月10日土曜日

モルモンと改宗

モルモン教といえば、ユタ州。

州都はソルトレーク・シティー。

むかし北米旅行したときに行きました。

そこにあるブリガム・ヤング大学を会場にもたれた国際法と宗教学会
みたいな会合に、全世界から90人の学者や専門家が招かれた。

ところがそのうちの一人、カリフォルニア大学サンタバーバラ校のマーク・ジャーゲンズマイヤー教授が直前になってキャンセルした。

その理由は・・・。


ブリガム・ヤング大学の学生でモルモン信徒として入学する学生が、もしその間モルモンの信仰を変えたりやめたりした場合は、学籍を失うという規則なのだそう。

その規則を変えようとしている学生グループが、この学会の参加者たちに、あなたたちが集まる大学にはこう言う規則があるのですが、とイーメールのメッセージで訴えたわけです。

その訴えを受けて、ジャーゲンズマイヤー教授は「良心的理由」から会議をボイコットしたということです。

以上、ハッフィントンポストの宗教担当記者のジャナ・リース。

 ※興味深いことに、ジャナはプリンストン神学校に行ってモルモンに改宗したと言う変り種。 

大学という知的探求の場所で、改宗も含めた信仰に対するオープンな追及を抑圧するような規則の正当性・妥当性の問題は、なかなか根が深いと思われます。



ポスト世俗と超越

本当に久し振りの更新です。

たまたま読んだブログ記事の紹介です。

イーナ・プレトリウス(発音は定かでない)さんは、現在はスイス在住のフェミニスト神学者。


ハイデルベルク大で博士号を取得し、現在はフリーランスで著作・講義などをしているようです。


Is There a Postsecular-transcendence?

宗教の多元化で、イベントに集まる人々は、様々な宗教的背景を持つ。

世俗化した情況で、無宗教的に会を持った方がいいか。

たとえば、キリスト教関連の集会では、祈りや賛美を織り交ぜてもいいのか。

迷うところです。

イーナさんは、たとえ世俗化したとは言えど、何かしら超越的なもの対する感覚は残っているだろうし、それを尊重してもよいのではないか。

とすると決まった祈りや賛美といった形式の儀式ではなく、沈黙のときをおいて、各自の宗教性に従ってその(超越との交流の)ときを過ごしたらいかがか。

という提案をなさっています。


※ドイツ人の方ですが、英語も読みやすいです。

2015年4月26日日曜日

『宗教崩壊』

世俗化という社会学用語は、

"secularization thesis"とか

"secularization theory"とも言われるように、

「科学的世界観によって宗教的世界観はやがて消滅する」とか、

「近代化によって宗教は社会の中心から私的領域に後退して行く」、

と言う風に受け取られてきた。


直前の記事でハーバーマスの『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)紹介したように、事情は大分変わってきた。


グローバルな社会を理解するのに、そして対応するには、どうやら「宗教リテラシー」がますます大切になっていくように見える。


日本の事情はどうか、と言う時にとても興味深い連載記事が日経ビジネスのサイトで始まった。

その名も宗教崩壊

人口減少や高齢化などの近未来社会を予兆する現象として宗教、特に仏教の現在をレポートする記事だ。

毎回ちょっとした歴史的背景などを織り交ぜた記事となっているので、余り仏教や宗教に詳しくなくても読み易くなっている。

何か本を買って学習する前に、ネットで手軽に読めるものを探している人には、オススメ、としておこう。


筆者は
2015年2月4日 寺は「時代遅れ」でもいい 芥川賞作家・玄侑宗久さんの仏教的視座

まで読んだが、玄侑宗久さんにインタヴューする記事は、(ツッコミどころ満載で)特に興味深かった。イチオシ。


2015年3月15日日曜日

ダイアリー 2015/3/15

めったに投稿がないので、余り前後の脈絡もない記事となります。
しかして「ダイアリー」のカテゴリーが選択されることに・・・。

今回はブックノートです。

ハーバーマス,ユルゲン/ラッツィンガー,ヨーゼフ(三島憲一訳)

『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2007年、岩波書店)




昨今の「政治と宗教」の話題と言うと、イスラム過激派テロとか(最近はかなり下火になったが)米国でのキリスト教右派(ファンダメンタリズムを原理主義と訳して紛らわしくなった)や福音主義者などであろうか・・・。

政教分離によって政治を含めた公共圏では「宗教は存在しないはず・・・」と思われたところどっこいそうではない状況をどのように理解するかの「西洋版」入門としても、この(後に教皇ベネディクト16世となる)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ドイツを代表する知識人である哲学者ユルゲン・ハーバーマスの対話が収録されている本である。
まえがき・・・フロリアン・シュラー

『民主主義的法治国家における政治以前の基盤』・・・ユルゲン・ハーバーマス
 1. 世俗化された立憲国家の、実践理性を源泉とした基礎づけ
 2. 国家公民の連帯はどのようにして再生産されうるのか
 3. 社会的な紐帯が切れてしまうならば
 付論
 4. 二重で相互補完的な学習過程としての世俗化
 5. 信仰を持った市民と世俗化された市民がどのように交流したらよいのか

『世界を統べているもの』・・・ヨーゼフ・ラッツィンガー
 -自由な国家における政治以前の道徳的基盤-
 1.  権力と法
 2. 権力の新たな形態、その抑制に関する新たな問い
 3. 法の前提 法-自然-理性
 4. 異文化対話とその帰するところ
 5. 結論

著者について

《訳者解説》
『変貌するカトリック教会とディスクルス倫理』(53-125ページ)

↑目次を紹介したが、《訳者解説》のページ数を示したように、メインの2論文の倍以上の解説が付いている。

メイン論文は剣道の試合で言うと、「挨拶を終わって竹刀を合わせて間合いを確認した」 程のものであろうと思う。

今後このような議論を土台にして対論が交わされて行くためのレールを敷設したほどの意義ではないかと思う。

※議論の仕組みは、「世俗社会の枠組み」でどのように宗教が参加できるか、そのルールを説明してる観のあるハーバーマスが「兄貴分」とも思われるのだが、内容を見ると「(今や仲間に入れてもらう立場である)弟分」のラッツィンガーの方が「偉そうな素振り」を見せているかのようである。

興味深かったのは(恐らく宗教事情に疎い)日本の読者のために訳者である三島が書いた解説文だ。

近代のカトリックの世俗国家・社会との位置関係を、特に「第2バチカン公会議」以降の変化に焦点を合わせながら、ラッツィンガーの個人的思想史背景を巧みに解説している。

これだけでも十分読み応えがある。

三島の説明で使用されている文献で重要なのは、ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』であるが、一般教養人でも十分認識していない「世俗化の諸相」を照合しながら、『ポスト世俗化時代の哲学と宗教(カトリック)』を説明している。
※邦訳が待たれるチャールズ・テイラー『世俗化の時代』とともに必読の書であろう。(テイラーもカサノヴァの議論と対話しながら自説を展開している。779ページ脚注1)

以下解説文から3箇所引用

(1)ラッツィンガーの(青年期のリベラル神学から後退したかに見える)宗教性
 ラッツィンガーの立場ははっきりしていた。この世での解放や歴史の完成よりも神の前での回心こそが重要である。政治的行動よりも聖体を囲む静かな内省を、「正しい行動 Orthopraxis」への叫びよりも祈りを、「下からの教会」よりも「内なる教会」を、と論じた。簡単に言えば、ユートピアではなく、キリストの再臨を待つ静観的終末論である。特に神学とマルクシズムの「野合」には厳しい。(98-99ページ)

(2)ラッツィンガーの近代理解の視座
 そのパターンとは、近代は解体の時代であり、頽落の文化であり、「中心の喪失」・・・と「価値の崩壊」をその特徴としている、とするものである。かつての共同体にあった明確な生の意味が崩壊し、社会と文化にまとまりがなくなり、個人もグループもそれぞれ勝手な軌道を歩んでいる、というのだ。(107ページ)

(3)ハーバーマスとの違い
 しかし、脱出の思想である以上、起源への問いはあまり意味がない。共通善こそ人権を保障するというテーゼをラッツィンガーがしきりと語るのも、新アリストテレス主義でありながら、普遍主義であろうとする彼の議論戦略である。ハーバーマスとの違いは明らかである。人権は、法に保障されたすべての権利と同様に法的構築物・・・であり、技術的な諸権利・・・とは、道徳的根拠を持っている点で異なるだけである、とするハーバーマスは、その根拠に関しても、天賦人権説はもちろん、ラッツィンガーのように、伝統に由来する実体論の色濃いそれは採用しない。関係性としての日常会話からも読み取れるディスクルスの規則とその手続き性から、人権の相互承認を、つまり共同の主観性の承認関係から人権の法化を考えるのがハーバーマスの方式である。ハーバーマスの立場は、近代を解体とは見ずに、むしろ、多くの場合暴力であった伝統を越えて、これまでになかった別の可能性を近代に見る。(112-113ページ)
と言った具合である。

特に(3)で引用した部分に対する教会側の見解は如何に、と言う重大な関心があるだろう。


2015年2月6日金曜日

ダイアリー 2015/2/6

久し振りの投稿です。
今年初となります。

前回、お詫びとお知らせを書きました。

この「小さなコロキアム」が目指しているが、まだ実現していない「共同学習会」の二テーマの2番目、(2)宗教の「今」、だったらこんなテキストで、こんな内容だったのだが・・・と言うことを書きました。

あれから暫く経って、もうすぐ春を迎えようとなっている今、考えているのは、「共同学習会」の二テーマ(1)簡単な「世界の宗教」入門の方です。

今年4月には何とかしたいなー、と細々ながらプランを練り始めました。

既に昨年初めにはテキストとなるべき本を物色して、「これ」というものを購入しました。

一応紹介しておくと、
要点解説90分で分かる! ビジネスマンのための「世界の宗教」超入門

です。
(宗教情報センター研究員 藤山みどり氏による書評をご参考に)

「90分」や「ビジネスマンのための」、とキャッチコピーが付けられているように、とにかく手っ取り早く世界の主な宗教を概観しておこうというものです。

「共同学習会」としてはなるべく敷居を低くしたかったので、このような「軽い」テキストを考えてみたわけですが。

しかしそれから1年。
イスラムに関わることがクローズアップしてきました。
「世界の宗教」の中でも、イスラム教を学習するべき時が来たのではないか・・・と感じています。

と、現段階では「ダイアリー」で書くにとどめておきます。